仮説を内蔵する建築

北山 恒 

経験する空間

建築とはまだこの世界に実在しない空間の組成を構想することである。構想された空間の組成が現実に立ち現れるとき、それは寸法や質料をもった実体となる。実体となった空間の組成は身体を持った人間が経験できるものである。自分の手で壁をさわり、自分の眼で明るさを感じ、自分の皮膚で風を感じ、自分の足で歩き回れる。構想された空間の組成がいかなるものであっても身体の寸法に対応していれば経験できる空間となる。実体となった空間の組成によって人は解放された自由を経験したり、行為の自由に抑圧を受けたりすることとなる。実体となった空間はそれが間違っていたとしても、現前する事実として認識される。

私たちの生きる世界は偏在した濃度分布をもつ無意識の連続体であり、言語によってそれが分節されて意識化されるように、空間の組成によって世界が意識化されるのだ。だから建築とは制度的存在だといわれる。既存の空間から壁ひとつが取り除かれるだけでそれまで経験していた空間体験が大きく変質することがある。

図面では一本の線でしかない壁の存在、不在、またはその機能的性格の差異によって、体験する空間は変容する。空間の組成を構想することは、経験する空間体験を事前に検証することである。建築を構想することは未だ存在しない空間体験を構想するという意味で、いかなる場合も発見的な作業だといえる。

あらゆる建築はこの世界に対する仮説として提出されているといえないだろうか。その仮説を検証する作業が建築的行為というものだ。いずれにせよ、世界は仮置きされたものでしかない。とすれば、建築的行為とはその世界の構図を検証するようなものである。とりあえず仮置きされたもの(=住居形式であれ、建築類型であれ、都市システムであれ)、それを手がかりに私たちは生きている。その仮置きされたものを検証し、新たにこの世界への仮説を提出することで世界認識を変えることができるのだ。だから建築的行為とはこの世界と絶え間ない応答を繰り返えす。「建築はモードである(でしかない)。」という認識が生まれるのはこのメカニズムの所以である。

新しい建築概念は新しい形態言語をともなって出現する

モダニズムは「人間の動作」という曖昧でとらえどころのないものを「機能」という言葉で抽出し、建築のありかたを「人」と「空間」の関係性のシステムに再編した。それまでの建築がなんらかの力を表象する実体的メデイアであったのを切断してしまった運動である。そこでは、それまでの建築における形態の特権性は剥奪され、建築の主題は、形態のなかで語られる様式という静的なものから、機能によって意味づけられる関係性のシステムという動的なものにもちこまれた。モダニズムにおいては、本来的にはその出自から形態独自の価値は無意味なものである。しかし、この運動は「切断のプロパガンダ」としてモダニズムのモードを装い始める。まず「白い直角の箱」、そして当時の産業社会を背景とする進歩主義の表象として「鉄、ガラス、コンクリートという素材」を主題とする形態操作を行うことで「切断」を明示する形態言語を獲得する。その時代の社会においてこのような形態言語をもつ建築の絶対量の過少にかかわらず、プロパガンダの能力は絶大であった。それはそのモードがわかりやすい形態言語をともなっていたこととともに、その背景にある新しい建築概念を時代が支持していたからである。

建築は皮膜に還元されるのか

この数年、建築雑誌に様々なルーバーの考案が紹介されている。それはまるで、建築家の主要な仕事が新型のルーバーの開発であるようにみえるほどである。このルーバー=皮膜の感覚が今のモードである。機能という人間と空間を関係づけるものから建築が組み立てられることがあたりまえのように認識されていたなかで、建築は環境からは切り離され、自律する閉じた空間のシステムとして存在していた。しかし、機能というものが空間を決定づける根拠としてさほど強固ではないものではないということが判明した今、再び環境のなかに建築は建たざるを得ない。その環境という概念から建築を根拠づけようということが主題となっているのだ。表層のモードの背景には新しい建築概念がある。それは建築というものが環境という開かれた空間のシステムのなかにあるという自明の事柄であり、モダニズムという切断を目的とした政治的運動から建築を社会的存在に置き換える概念なのだ。ただ、現代のモードは環境という言葉に反応する「身振り」としての建築ではあっても、大きな物語をつくるものとして提出されているわけではない。

この皮膜を主題とする建築の特徴は、その主題を明示するために、構法や素材に対する過剰な意識、そして構造形式の単純化、平面に対する極端な無関心があるようである。そこには平面に特権的位置づけを与えていた「機能」に対する不信感から生まれたニヒリズムが存在するように思える。モダニズムという形態言語を無意味化する運動の、その基底をすくわれて反転したマニエリスムとしての今がある。そのマニエリスムにどっぷりつかることが時代を表現することになるのだが、そこには世界の構図に対する仮説は不在である。

いずれにせよ、今、私たちが構想する建築は20世紀初頭に提示されたモダニズムの枠組みのなかにある。空間と人間の関係性という自律するシステムで構築されていた建築に、さらに環境という開かれた概念が導入されている。そこでは様々な仮説が提示されているのだが、決定的なものは存在しない。というよりは、環境という開かれた概念に対応する単一の仮説は存在しないと言ったほうがよい。建築は、今、同一の運動感覚をもちながら、それぞれが固有性を保持する多様性へ向かうように思える。