形態の存在証明について
 今、建築にどんな形態を与えることことも自由であるようにみえる。建築の形態はかならずしも機能に従うわけではなく、建築の形態がこうあるべきであるという社会的規範はない。あらゆる技術を動員すればたいていの形態は実現可能である。
 建築は否応なく形態を付随して出現するのであるが、いかようにも形態を与えることが可能ならば、形態自体に唯一性というものはないこととなる。すなわち、形態そのものには何ら根拠はないということである。とするならば、形を伴う建築自体の根拠も不明となってしまう。だから建築にとって、形態の存在証明は、建築自体の存在証明と同義であり、建築の根底を動かすきわめて重大な問いとなるはずである。
 とりあえず、モダニズムにおいては「機能」という言葉がその根拠を支えていた。
それまで、建築は王権や宗教権力を表象する実体的メデイアとして存在してきた。近代において、「人間の動作」というそれまで周縁に位置づけられていたものを「機能」という言葉で抽出し、建築のありかたを「人」と「空間」を関係づけるシステムに再編してしまったのは、20世紀に私たちが獲得した大きな切断面である。
 そこでは、それまでの建築における形態の特権性は剥奪され、建築の主題は形態のなかで語られる様式という静的なものから、機能によって意味づけられる関係性のシステムという動的なものにもちこまれた。人のアクテイビテイと空間を機能という言葉で関係づけるこの運動は、「機能」という言葉が「効率」という言葉にすり替えられることによって、資本の論理に回収され、意志決定不在のオートマテイズムを生むこととなる。形が自動的に決定されるという、このオートマテイズムに対抗して、建築の形態に固有性を獲得しようとする試みがポストモダニズムの論拠であろう。「人の記憶」という、これもまた、周縁に位置づけられていたものから「人」と「空間」を関係づけることが目され、再び形態に特権的な力が与えられる。しかし、形態で語られるわかりやすい構図は、容易に形態の消費に結び付き、再び資本権力に取り込まれてしまった。形態は力の論理に利用されやすいため、無批判な形態の行使は簡単に権力機構にとりこまれていくのだ。力の論理からの逃走をはかる場合、力の側に組しないため敗者の位置づけが与えられ、力の支配する世界では現実の建築となりにくい。
建築とは力のシステムを内在するものである。近代における建築は実体的な形態で語られる力のデイスクールと、そこから排除されるものという関係性で語られる負のデイスクールとのあいだをゆれうごく闘争としてとらえることができないであろうか。
 ここでいう力のデイスクールとは権力、制度、政治などの機構から生まれる支配の力である。負のデイスクールとは人間の感情や身体の感覚に根ざした壊れやすくはかないフラジルなものである。
建築は必ず何等かの目的をもってつくられる。建築を企てるのは建築をつくることによって企てる側になんらかの利益が予定されている。王権や宗教権威をリアライズするものとして構築された壮大な空間は、人々に権威や権力という目にはみえないものを、人々に坑しがたい実在する力として認識させる装置としてはたらいていた。建築を企てる論理が強くはたらくとき、建築空間が利益目的に合うことが求められる。その場合、空間を体験する者にその意図どうりの読み取り方を強制する力がはたらき、その為わかりやすいメデイアとして形態に意識が集中されるのである。
 空間を体験する側の論理で組み立てられる建築は、「人の動作」や「人の記憶」といった形にならないものを媒介とした関係性で語られる。形態そのものよりも人や物の関係性によってつくられる空間が主題となるため、形態に自立した意味は与えられない。空間の読み手にとって多様な読み取りが可能な空間である。しかし、このような負のデイスクールを主題とするものがはかなくうつろいやすいものであるため、明快でわかりやすい形態を伴う構図に容易に置き換えられてしまう。空間を体験する側の論理で組み立てられたものは、絶えず建築を企てる側の論理に回収されていくように思える。
 この状況から逃げきるためには、形態から恣意性が徹底して排除されたモノの関係性だけで語るか、建築の姿自体を消すこととなる。力のデイスクールを否定するとき、建築に形態を与えることが不能となるのかもしれない。その結果、建築は姿を消し、透明な箱に還元されてしまう。
負のデイスクールとは力のデイスクールとの関係において位置づけられるものであるから、絶え間なく働く力のデイスクールに回収されるのは当然ことである。このメカニズムを了解するとき、私たちは絶え間ない負のデイスクールからの反撃を運命づけられていることを知るべきである。( 建築文化1996/3より抜粋 )
 私たちの生きる世界は記号と意味のシステムである言語から根本的な拘束を受けている。私たちの存在・認識・思考・行動のすべてが、言語によって制約され、決定されており、私たちは言語の構造の内部から出ることができない。同様に私たちは日常的に空間のなかに身体を浸しており、今ある空間の概念からしか空間を想起することはできない。この言語的、身体的拘束から離脱することは可能であろうか。
 建築が否応なく形態を付随するものであるために、その形態を形作る物質から建築の成り立ちが決定されてしまう。建設とは経済原理のなかに支配された行為である。そのため、市場に流通する建築素材や部品からの拘束を容易に受ける。この素材や部品からの制度を認識したうえで、この制度を乗り越えることは可能であろうか。
 「機能」という人間と空間を関係づけるものから建築が組み立てられることがあたりまえのように認識されるなかで、建築は「環境」からは自律した空間のシステムとして存在していた。しかし、「機能」という空間を成立させる根拠がさほど強固なものではないことが判明したいま、再び「環境」のなかに建築は建たざるを得ない。その「環境」という概念から建築を根拠づけることは可能であろうか。
 建築という行為は計画という「力」の側の論理を内包している。この世界に存在しない空間を扱っているにも関わらず計画のゴールとしてのフォルムがあらかじめ用意されてしまう。そこでは計画される側の論理は排除され、人を収容する抑圧のシステムとしての空間がセットされている。計画される側からの参加が可能な計画とは存在するのか。計画される側がその計画を選択することは可能であるのか。 「負のデイスクールからの反撃」として、以上のような設問を用意した。自問自答のような作業になるのだが、この解答として私的な試論をこれから提出するつもりである。


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