「あたりまえ」の再構築
「あたりまえの生活」
「朝の通勤電車に乗り、都心のオフィスに向かう。満員電車の乗客は皆同じような服装で無表情である。車窓から眺める風景はエンドレスフィルムのように刺激のない茫洋とした住宅地が続く。9時から始まるオフィスでは毎日同じような仕事が行われる。一日に仕事で会話をする人数は十数人なのだが、千人を越える社員が一つのオフィスビルの中にいる。この場所で生まれる社会集団や人間の関係は自らの意志ではなく、会社の論理によって配属されて生まれたものである。いわば、企業を選択したときに運命的に決められた集団である。9時から5時まで机の前で仕事をして、少し残業をした後、会社というコミュニテイの成員と飲みにいく。たわいもない日常の会話に心地よい安心感を覚える。そして、電車に乗って郊外の住宅地に帰る。夜でも混雑する電車の乗客は皆同じような服装で無表情である。車窓から眺める風景はエンドレスフィルムのように刺激のない茫洋とした住宅地が続く。ときおり線路に向けられた見慣れた看板に意識がとられるぐらいである。彼の住む家はローンが組まれており、この返済のため会社をやめるわけにはいかない。」私達のあたりまえの生活である。

都市という拘束
こんな生活があたりまえになったのはそれほど昔ではない。19世紀末、大量生産を背景とした大資本企業が生まれ、それとともない資本市場、金融市場が巨大化され、そのマネージメントのための大量のオフィスワーカーが必要とされた。その大量のオフィスワーカーを収容するものとして、オフィスビルというビルデイングタイプが発明される。そして、当時のアメリカでは大量の就業者を対象とするため、広範なエリアをカバーする立地として都市の中心部にオフィスビルが建設された。 ヨーロッパにおいては、宗教や王権の制度に対応して組み立てられた旧市街が存在するため、都心部にオフィスビルのための用地取得が困難であった。そこで、都市郊外に企業を中核とした理想都市が提唱される。このような社会の動きはそれまでの王権が資本権力に置換されたものとしてみることができる。だから一つの企業とは一つの王国である。
第一次大戦直後、戦場とならなかったアメリカは生産施設が破壊されたヨーロッパにかわり世界の経済を掌握するものとなる。都市が未成熟であったアメリカにおいて、容易にオフィスビルを中核とした都市がつくりだされる。都市周辺には都市労働者を収容する専用住宅が大量に用意される。1920年代のニューヨークで作られたスカイスクレーパーの林立する都市は、それまで想像もできなかった都市風景を構築してしまった。巨大資本の自由な振る舞いによって都市は決定づけられる。スカイスクレーパーの1本は20世紀に出現した資本という王国のシンボルであり、そのため必要以上の規模が与えられていた。
日本においては敗戦後ほとんどの都市は焦土と化し、新たに構築する都市は資本原理に効率よく対応する機構としてつくられた。生産効率の悪い農村は遺棄され、都市の水際線は物流の拠点となり、都市の中心部はオフィスビルに埋められ、都市周縁部には都市労働者として都合の良い核家族を収容する専用住宅によって埋め尽くされる。この専用住宅は個人としては莫大な額のローンによって購入する。そして、それが経済の原動力として働いている。都市労働者の生活環境を保全するように社会的弱者を収容する施設が行政サービスとしてつくられる。住宅の中から老人・病人・子供(日中だけだが)などの弱者の居場所がなくなり、都市労働者というひとりの男を核とする家族に対応する住居形式nLDKが定着する。
これが冒頭に書いた「あたりまえの生活」を生むメカニズムである。生産現場をもたない専用住宅の出現によって地縁社会は崩壊し、生産と消費を抱え込む都市が社会の中核となり、都市は効率よく作動する機関として構成とされている。現代の社会はボランタリーな意識で生活を組み立てることが困難なものとなっている。こう考えてみるとこの「あたりまえの生活」は、たかだか50年ほど続いているだけの、制度的に仕掛けられたものでしかないことがわかる。現代都市はこのような仕組まれた「あたりまえ」のうえに成立しているのではないかと思っている。

建築の場所
現代社会は21世紀に入った今、様々な局面で破綻を見せ始めている。自己実現の希薄な社会、高齢化社会、教育問題、環境問題等々。それは、現代社会という枠組みが壊しがたい強固なものとして作動していることと、それを私達が「あきらめ」による「あたりまえ」として捉えていることによるのではないか。そして、建築はこのような制度の枠組みを視覚化する装置として働いてきた。建築とは、未だあり得ない概念を空間図式として実体化するものであり、そのリアルな存在は身体的に知覚できることから、いかなる虚構もその存在を「あたりまえ」のものとして認識させる力をもたされている。この意味において、建築はこの現代という社会を成立させる素因であったとも言える。 建築は制度にコミットできる唯一の表現形式である。だからこそ、既存の枠組みを乗り越える新たな空間図式を提示しなくてはならない。制度化されたビルデイングタイプに縛られた建築はオートマテイカルに再生産されるだけで現実の生活とは乖離しているのではないか。制度を維持するためにくり返される建築においても、その形式を組み替えることで、まったく新しい空間に変質させることも可能である。そして、その空間が体験できるということは、体験する人々の意識を覚醒することもできる。建築の形式の変更は人々の生活意識をかえ、さらには、都市のありようもかえていくであろう。新しい建築は形態の問題ではなく、構造的に新しい空間図式にある。意識をかえうる明快な空間図式を発見すること。そのためには、現代の不自由をクリテイカルに自覚し、個の解放と個の選択可能性を拡大するという精神をもつことである。と、考えている。


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