美学的であること、政治学的であること
 小さいながら、それぞれの住宅が建築として形作られるのにはそれぞれ説明の付く理由がある。建築とは建築家が自由に形態をつくるものではなく、さまざまな制約を受けてその形態が生成されている。  たとえば、日本の伝統的な住宅の構成には、それなりの理屈が存在する。高温多湿な気候条件に対応して軸組構造の開放的な構造、障子、ふすま、欄間など空気を流すことを前提としたスライディングドアのシステム。熱環境のパッシブシステムでもある縁側や廊下、床下のインシュレーションになるタタミ、雨が多いために瓦屋根と軒の出など、すべてに理がある。そして多くの材料は自分の家の近くで入手可能なもので、メンテナンスも近隣の手を借りておこなえるものである。そのくらいの材料と技術レベルで住宅がつくられていたと言うことである。
 しかし、現代では都市化が進行し、東京の都市部では住宅の敷地規模は20坪ほどしかない。周辺は密集して住宅が建てられているために、プライバシーや防犯のうえでも開け放って風を通すような生活は困難になっている。エアコンや設備機器が普及し、かつては最も安価であった土やワラ、むくの木材、は高価なものとなり、現代の生産システムと流通システムのなかでは安定した性能をもつ工業製品のほうが安価に手に入いる。建築をつくる環境は明らかに大きく変化している。小さな住宅ひとつつくるにも、クライアントがいて、土地と周囲の環境があり、建築基準法という制度があり、予算が決められ、工事を行う技術、材料の選択とその材料の流通・生産、そして社会のなかで認識されている住宅という概念、nLDKという住宅の形式や住宅を資産ととらえることなど、これは社会がつくる制度なのだが、ひとつの建築を形作るのに社会・環境・状況からのさまざまな拘束力が働いている。  建築とはこのようなあらゆる領域にかかわる問題群に対応する解答であると考えている。しかもその解答は建物という動かし難いひとつの固定したものとして社会のなかに置かれる。本来は多様な問題群に対応する解答がひとつになることはなく解答も群として解かれるものなのだが、建築とは多様な問題群をいっきに解く統合形式であるともいえる。しかもその解答はその場かぎりではなく時間のなかで耐えていくことが要求されている。
 住宅は、そのような問題群がある程度限定されている演習問題のようである。だから解答の検索は比較的容易なのだが、最終的な判断は施主という個人に回収されるため、時には個人のノスタルジーの表象となったり、個人の趣味であったり、商品的付加価値などが自在に入ってくるために、建築を組み立てるうえでのの厳密性はゆるやかなものだ。
 より複雑な問題群に厳密に対応しなくてはいけないものとして、多数の人間の集合形式を扱う建築がある。公共の建築であったり都市に建つ大型の建築であったりするのだが、このような建築にはより厳しく制度や資本の論理からの縛りがかかっている。たとえば、建物の内容であるプログラム、人のアクティビティであったり、人と人の関係性であったり、それが集団となった場合の関係性であったり、さらには社会の仕組みに係わる空間の構成にコミットすることは、社会制度に直接的に関係するため容易にはおこなえない。また、経済的効率が厳しく要求されるため、構造や仕上げに使う材料まで細かく規定される場合もある。そこに制度や資本のオートマティズムが存在する。私たちは都立T高校の設計で経験したのだが、そこでは建築という概念を成立させると考えている空間の構成に係わる問題はすべて棚上げにされ、表層の美学的なものしか提案を許されなかった。
 通常、建築は写真というメディアによって伝達され、写真というメディアによって評価される。建築物というのはひとつのまとまりをもっているため、写真の対象になりやすい事象である。私は建築とは社会にある問題群の解答であると考えるのだが、社会のなかで建築という事象が伝達するメカニズムを考えれば、その問題群はすべてジャンプして美しいワンショットが撮れる撮影用のセットをつくるという方法もある。これは、現実に存在する建築よりも写真のなかの建築のほうがはるかに社会的インパクトが強いということだ。この構図が建築を美学的問題として扱うことをさらに強化しているように思える。
 建築を観察する人にとっては、建築は社会に露出する表象としてとらえられるが、建築を経験するする人にとっては、人の行為を規定する空間の構成のほうに意識が働く。たとえば壁を透明ガラスに変えるだけでその空間を使用する人の意識が変化し、集合としての人間の行動様式も変わる。また空間の寸法やわずかなレベルのとりかたで人の領域に関する認識が変わる。建築はそのような実体の関係性によって人の行為を規定する秩序をつくったり、人の意識を開放したり閉塞させることもできる。そしてその関係性の取り方で人間の集合形式をかえることもできる。だから建築という形式は人間の行動様式をコントロールするという点で政治学的な性格をもっているといえる。  同時に、建築は実体を伴うため、その実体の形象がもつ意味や記号を付随している。そこに、建築の美学的側面が存在する。しかし、美学的側面は人間の認識に係わる不安定な構造をもっているため、その判断は容易に変わるものである。だから美学的側面にたよる建築は流行の中に取り込まれ容易にその価値を失う可能性がある。建築はファッションや流行とは異なる構造を持っているのだ。建築における形態とはこの社会を政治学的に解読していく中で付随して派生しているものでしかない。建築における形態とは、社会や環境の状況の読みとりを反映するものでしかなく、建築とは形態そのものを目的とするものではないと考えている。
 建築は美学と政治学という双方の性格をもたらされている。人がその中に入り何かの目的に使うものだから、彫刻や絵画のように美学だけで自律することはないはずだ。19世紀以前の王権や宗教という特定の権力のためにつくられていた建築は権力の表象として建築が存在していたため形態は重要な意味をもっていた。20世紀初頭から始まるモダニズムの建築は市民のために構想された建築である。特定の権威のためではなく、社会のシステムに対応する装置としての建築であった。それは政治学が先行し、その結果としてモダニズムの建築形態は発見された。
 現代は資本という権力のもとで建築がつくられているため、ふたたび権力の表象としての美学的側面が重要な意味を持ち始めているようにも思える。現代の建築はこの資本システムの外では存在できない。資本を権力としてとらえる場合は建築はこの権力に利用しやすい美学的問題として語られるものになる傾向がある。しかし、資本の原理を透明で公平なシステムと読み直すこともできるのではないか。建築はその時代を生きるものであるとするならば、資本の権力ではなく、このシステムを実体化する装置としての建築という存在もある。この認識の中で、建築をこの現代の社会のなかで合理的な説明の付く装置として創ろうと考えている。そこでは、美学という権力に付着する意識さえも排除したいと考えている。その過程で生まれる建築が公正な社会の表明であったり、大げさに言えば、この社会に生きていて良かったと感じられる社会のシステムを明らかに示すことができれば、と思っている。


architecture WORKSHOP
(C) 2005 architecture WORKSHOP Ltd. All Rights Reserved.