吉村順三の特異点 ― 脇田山荘
50年代のアメリカ
TASCHENから最近出版されたMODERNISM REDISCOVEREDという写真集がある。第二次世界大戦直後の1940年代半ばから60年代前半くらいまでの西海岸を中心としたアメリカの住宅を大量に扱っているのだが、この本に納められた住宅の写真を眺めていると有名なケーススタディハウスだけではなく豊かな生活を表現する新しい建築がその当時大量に作られていたことがわかる。そしてこのような住宅をつくりだした当時のアメリカという社会が幸福感に満ちた時代であったことが想像できる。
その写真を見ていくと共通したイメージが存在する。内部空間の写真はリビングが中心となっており、それはオープンで流れるような空間として作られている。ほとんどどの住宅も暖炉が設けられていて、その暖炉に火が入れられている写真が多い。食事やパーティの場面のような写真が多いのは住宅に於ける幸せの風景であるからだ。ダイニングテーブルとそのテーブルを照らす照明の写真は家族生活の重要な演出である。キッチンがその空間の中心に用意される場合があり、合理的で清潔なオープンキッチンの写真が載せられている。そして必ず広い庭での戸外生活を楽しむようなしつらえがされていて、そこにはたいていバーベキューグリルが置かれ、プールが設けられている住宅もある。
これらの住宅は幸福感を表現する空間というステレオタイプなのだ、と思う。第二次世界大戦を自国が戦場とはならずに戦勝国となったアメリカは、当時世界の中で経済的にはひとり勝ちの状態であった。世界の戦後復興の物資はすべてこの国が生産し世界の富を集積していた。そしてその時代の気分を表彰するように、ウォルト・ディズニーが勇気と正義によって勝ち取れるファンタジーあふれる未来の物語を語っていた。TVの普及とともにアメリカンホームドラマというアメリカの善良な家族がつくる幸せの物語がいくつも創られた。アメ車という大型の乗用車は羽を持つようになり脳天気な幸せのイメージを表現していた。そんな生活を収容する住宅がこの写真集の中に掲載されているのだ。アメリカのフィフティーズとはまとまりをもった強力な文化のパッケージである。

デペンデントハウス
50年代はアメリカという国家が世界を覇権した時代である。欧州や日本に進駐したアメリカ軍の占領政策を見ていくと、食料を中心とした大量の物資と共に誰もが幸せになる民主主義という社会のシステムまでも持ち込もうとしたように思われる。日本の敗戦後、アメリカ軍は一万三千という大量の家族をともなって進駐しているのだが、その豊かな近代的家族生活の様態は民主主義のプレゼンテーションとしての重要な意味が与えられていたのではないかと思われる。この内容に関しては「占領軍住宅の記録」(すまい学大系)に詳しいが、そのなかで、この米軍の占領軍住宅(デペンデントハウス)の設計責任者であったアメリカ軍少佐の「日本人に対して新生活様式の先駆けとなる日米折衷様式である」と明言していたと紹介されている。戦前の日本の住宅は家父長制による家族に対応するもので、現実の家族の生活に対応するよりは格式が重んじられるつくりとなっていた。それは、立派な玄関や床の間付きの客間が重要であり、台所や主婦の家事に対する配慮はさほど重要視されていない。デペンデントハウスは民主的な近代家族の生活様態に対応するものであり、それは居間、食事、寝室の三つのゾーンを明確に分離した平面プランとされていた。そして、その住宅設備は物質的な豊かさに満たされている。セントラルヒーティングの設備が標準的に備えられ、キッチンには大型冷蔵庫、電気レンジ、電気温水器、洗濯機、パーコレーター、ミキサー、ワッフル焼き器、ディナーセットなどの食器、鍋パン類、チーズおろし、肉挽き器等々、モダンな生活をおこなう道具が標準的に設けられていた。この進駐軍のデペンデントハウスの建設によって、ソファーからグレープフルーツ用ナイフに至るまでの約95万点にのぼる家具、什器、電気機器が住宅関連産業に発注されたそうである。それまで見たこともなかった生活様式に係わるモノが身近に置かれることとなり、直接的にアメリカの生活様式が伝達されたのである。50年代に進駐軍によってもたらされたこの生活文化としてアメリカのフィフティーズの文化パッケージは、日本の経済復興とともなって、60年代になると日本人の生活様式のなかに移入される。

軽井沢の別荘
1970年に竣工している脇田山荘はこのような時代背景の中に存在している。軽井沢に建つ別荘ということもあって、日常生活を支える住宅とは異なり、この山荘には家族生活の入れ物としての理想の形式が構想されているように思える。主階の平面は南の方位を囲むように曲げられ、全ての部屋に陽射しが射し込むことが約束されている。配置図をみると敷地規模は住戸平面に比べて充分に広く、道路付きからの離隔距離も充分にとれているので、壁面後退線などから決められたのではなく、この平面形状には太陽の方角を囲むように建物を曲げるという意志がはたらいていることがわかる。
平面の中央はダイニングリビングとしての居間が設けられている。この居間をコントロールするようにキッチンカウンターが設けられている。キッチンは手元が隠されているのだが、そこで調理するひとは居間に顔を向けるようにされている。キッチンではたらく人は隠されるのではなく住居の中心に居る。このオープンキッチンを可能にするために、通常は吊り戸棚に組み込まれるレンジフードが裸で降ろされ、このシロッコファンの組み込まれるフードは注意深くデザインされている。居間の中心にある曲げられた平面の屈曲点にあたる位置にダイニングテーブルがセットされ、そこに特注の大きなペンダントライトが降ろされている。この位置は内部空間の視点が集中する焦点であり、ここで前述した家族の幸せの風景としてのパーティや食事が演出されるているのだ。
この主階は有名なデッキプレートを用いた気道に流す温風による床暖房が設けられ、セントラルヒーティングとなっている。そしてこの居心地の良い居間をさらに象徴するように暖炉が設けられる。暖房としての機能はオイルファーネスを熱源とする床暖房が担保していることで、この暖炉は火を囲むという行為の表象として置かれていることがわかる。この居間を中心に寝室とアトリエが振り分けられるのだが、曲げられた平面のためにこの諸室への移動はスムーズである。視線は連続しなおかつ角度の振れが空間を穏やかに分節している。平面が曲げられているために、東端に設けられている書斎から同じ建物にあるアトリエを眺めるという視点が作られている。
幸せな家族生活というシーンが組み込まれた舞台セットのようなこの主階平面は、地面から切断されてピロティで持ち上げられている。たかだか一層の木造家屋を載せるためにRCの構造体を造るのは過剰な構造であり、合理性はない。同様の構成は1962年に竣工した吉村山荘で用いられており、そこでは軽井沢の土地は湿気が多くためRCの構造体で主階を持ち上げたと説明されている。この山荘のRC造の1階は倉庫、機械室といった生活を支えるためのものが置かれ、大きな跳ね出しスラブはハンチで持ち上げられるような形状を与えられ上部の主階を支えている。脇田山荘においてもRCのピロティを設け、主階は地面と切り離されるというこの空間構成の概念がさらに展開されている。そして、このピロティにはデッキの張られた場が用意され、そこに付属するようにファイヤープレース(バーベキューグリル?)と流しが設けられている。ここにも戸外生活を楽しむシーンが組み込まれ、舞台セットのような作為がみられる。

ユートピアとしての生活スタイル
この軽井沢の別荘は実生活からは切り離された、ある意味でダイアグラムのような住居である。プログラムは軽井沢という別荘地の広大な敷地に建つアトリエ付きの住居という、当時の日本のなかでも特権的な住宅である。そのどこにも存在しないような特権性をもつ住居であるからこそリアルな生活は捨象され、ユートピアとしての生活スタイルがスタディされている。その生活スタイルの下敷きになっているモノは“50年代のアメリカ”のモノである。そしてその生活スタイルに対応する空間は当然の事ながら“60年代の日本”であるという変形を受けながら“50年代のアメリカ”が展開した幸せな家族生活の表象としての住居が再現されているのだ。
もう一度この脇田山荘を検証してみよう。この山荘では使われている材料には高価なものはない。仕口や加工に特殊な技術を必要とするような作り方はとられていない。そこには作り方の合理という概念が存在しているように思える。角度が振れたカネ(直角)のない平面はある種自在な空間体験を演出している。同時に木造軸組の構造材の取り合いも自在さが要請されている。必要なところにスチールの補強を入れるという、伝統的な木構造とは異なる合理精神が内在している。そして、通風や採光といった住居の性能に対して細やかな配慮がおこなわれ、開口部の処理や軒の造りなどが住居の形式性を越えて優先されている。さらに眼には見えない住環境を支えるための設備機器に大きな関心が払われている。デッキプレートによる気道を用いた温風床暖房というのは、世の中に流通する工業製品を最大限利用しようとするイームズの自邸のコンセプトと共通するものがある。そのディテール図面は素人大工の検討図のようであり、そこに大いなる素人のようにチャレンジして新しい建築の作り方を開発していたケーススタディハウスの建築家達の姿勢と共通するものをみる。
このような作り方の合理性という側面を持ちながら、そこに造られる空間は前述したように家族生活を演出するしつらえに注意が向いている。行為をうながすようなしつらえが舞台セットの道具立てのように作られているのだ。
RCのピロティの上にはユートピアがあった。この脇田山荘は吉村順三の他の作品が抑制の利いた造られ方がされている中で、ただひとつ特異な建築である。そして、それはアメリカの50年代から始まる幸せな家族生活を表現する住宅の、日本的展開のおそらく到達点なのである。

メタ概念としての建築
1968年、パリの五月革命から始まる世界的な若い世代の異議申し立て運動は、この欺瞞に満ちたアメリカ民主主義に対する嫌悪感だったのではないだろうか。アメリカの自国でもベトナム戦争の反対運動と公民権運動のなかでこのナイーブな民主主義は否定されていった。磯崎新による建築の解体が美術手帳での連載が始まり、1968年に創刊された都市住宅誌に取り上げられる当時30代の建築家達の提出する住居は、この幸せな家族生活の舞台装置のような住宅を乗り越えていた。建築は吉村順三の目指していたものから大きく舵が切られ 建築はメタ概念へと移行したのである。
だから、この脇田山荘は1970年に竣工し建築雑誌に発表されたが、そのときには既に時代は大きくシフトしており、この脇田山荘はその時代の中に置き去りにされた建築であった。と、私は思う。

―すまいろん 2004/秋号―


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