「新建築」2006年1月号 月評
 久しぶりに「新建築」の月評を受けることにした。前回は1996年の月評を担当しているので10年ぶりである。毎月締め切りに追われながら生活するのは鬱陶しかった記憶があるので、確か一度、月評の依頼をお断りしたことがある。今回依頼を受けて、思えばこの数年、建築雑誌を熱心に読まなくなったことに気づいた。自分の設計している建築に手一杯か、または他人の仕事には無関心になっているのかもしれない。人は歳を取ると外界の出来事に興味がなくなるというが、そうかもしれない。と、思って、久しぶりに1年間建築雑誌をしっかり読んでみることにした。

12月号の真ん中には特集として5つの住宅が掲載されている。(特集:ディテールから空間を読む)。「新建築」は本誌以外に住宅だけを扱う「住宅特集」というメディアを持っているにも関わらず住宅を「新建築」の真ん中に持ってくるのには訳がある。「新建築」ではかつて、住宅は年2回の住宅特集号で扱われていたが、1986年に「住宅特集」が創刊され今年で20周年となった。それで「住宅特集」の新年号は20周年記念の特集号となるそうである。この20年の間で建築界における住宅の位置づけは大きく変わってきている。この月評を書いている時にギャラリー間も20周年を迎えその記念展のオープニングを催した。この20年間、日本の建築界の潮流をリードしてきたギャラリー間の記念展が「住宅」をテーマとしているのだが、その意図はオープニングの日に発刊された「日本の現代住宅1985-2005」という本の中に説明されている。その中に納められた「新建築」の編集長をかつて務めた石堂威の時間を俯瞰するような文章を興味深く読んだ。1966年に建てられた東孝光の都市を象徴するような「塔の家」を当時の「新建築」では掲載を見送ったことを紹介し、最後に「住宅には建築家の思考が凝縮されている」と結んでいる。

12月号の表紙は隈研吾のLotus Houseという住宅である。石という重たい素材を軽やかなスクリーンとして吊すという反転、スチールの梁より成のある集成材の垂木という反転が仕掛けられ、制度化された視覚に揺さぶりがかけられる。巧妙な操作によってこの場の物質は粒子のように質量を失い、非在の場を生成しているようである。作者はミースのバルセロナパビリオンを援用して内部でもなく外部でもない曖昧な領域を説明しているが、バルセロナパビリオンは建築のような庭園でありすべてが外部空間とも言える。この住宅は空間のプランニングというより眼に見えるモノの操作に主題があるように思える。「建築とは表層の快楽である」ということなのかもしれない。

巻末インタビュー:あなたの「今」につながる建築史へで紹介される「日本の建築空間」では、日本建築史を「空間史」という視点で「法隆寺西院伽藍」から「金沢21世紀美術館」まで時系列で100の建築(空間)を一気に見せる。これまで、日本建築史とは様式の発展モデルであり、寺社仏閣だけを対象にするものだと思っていた私にはとても新鮮であった。この100点には近世の頃で江戸時代初期の民家や書院など、そして現代の項は半数くらいが住宅となっている。建築というものを機能別の分類で評価を行なうことには意味がないと言うことなのだろう。ここで持ち出された「空間」という概念を説明し尽くせるかという疑問は残るが、建築を学ぶ学生達には良きガイドができたと思う。全国の100空間を制覇する学生が出てきそうである。

ところで、私自身も関係しているのだがJIAの主催で「かつて住宅には「思想」があった」という連続シンポジウムが開かれている。戦後に展開された日本の住宅を建築家に焦点を当てて丁寧に検証するものだ。すてに前川國男と吉阪隆正の回は終了し、今年度内にあと5回予定され、さらに来年度の企画も進めている。是非聴講されることをお薦めしたい。「吉村順三建築展」レポートの中で、奥山信一は軽井沢の山荘を訪ねるのだが内部に入れなかったエピソードから図面というメディアの話を解き起こしている。住宅がこれほど語られても、それが私的なものであるために実際の空間は体験することはほぼ不可能である。その困難さ故に神話化が進むのであるが、その神話をイメージすることでさらに未だ見ぬ空間が投企されるのだ。


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