「新建築」2006年2月号月評
 東京という都市では、この数年都心部の巨大再開発が進行し面的に風景が一変することを経験しているのだが、同じ時期にスーパーブランドの自社ビルも銀座や表参道などの都心部に競うように建てられ、点的にではあるが風景を劇的に変えている。この建物群が出現する理屈は年商数百億円といわれるスーパーブランドの企業戦略にあるようである。イメージを最大化するというブランディングへの戦略が優先されるため、イメージの良い場所に自社ビルをもつことは年間に使う広告宣伝費から考えれば効率の良い投資なのだそうである。そして、それは償却資産として長期にわたって節税効果がありながら、なおかつそれが保有資産になるという経済上の理屈がある。そのうえに、時間の中で消費され忘れ去られていくビジュアルメディアではなく、そこでは建築がもつ特性が正しく評価されているのだと思う。建築はサイトスペシフィックな唯一性をもち、なおかつ身体で経験できるという固有の強力なメディアである。その建築の特性をさらに強化するために、スーパーブランドの自社ビルは特異な表層が与えられ強い象徴性が与えられる。

「MIKIMOTO Ginza 2」もこのスーパーブランドの自社ビルがつくられるのと類似したプログラムなのであろう。そのファサードは周囲の風景からは切断され強力な象徴性を獲得している。解説の中ではその象徴性を与えている表層が躯体に付着したものではなく躯体そのものの外皮であることが繰り返し説明され「肉体的表現」という言説が持ち出される。しかし観察する側からみれば、表層が付着物であるか躯体そのものであるかということはどうでも良いことのように思える。それは造る側の倫理が語られているのかも知れない。このMIKIMOTOのすぐ近傍にあるCHANEL銀座はファサードすべてが躯体にクリップされた映像装置である。おそらく数十億をかけたであろうこの映像装置も賞味期限をすぎれば廃棄され新しいラッピングに取り替えられる。しかしMIKIMOTOの外皮は交換不可能だから建築が解体されない限り百年後も同様のファサードを保持しているのだろう。いずれ都市は再編される。そのとき都市を物語る最初の発話者として、この建物は機能するのだろうか。日本橋再生計画の解説を読むとその計画理念の主要な語り口が百年を経た「三井本館」であり、その「三井本館」の存在がすべての計画を律しているようにみえるのであるが、MIKIMOTOは百年後の都市再生の有力なプレイヤーとなるのであろうか。

巻頭論文の「21世紀のオルタナティブ」ではまず人間の認識できる時間のひろがりから話が書き起こされる。それは五世代二百数十年とされるのだが、建築は時間を操作するスケールになり得るかという命題が複線として置かれているようである。「建築は人類を救えるか」という副題はずいぶん大げさだとは思ったが、そこで提案されるオルタナティブは私も共感した。具体的にオルタナティブが何であるかという提示はないが、それは強い側の論理ではなく弱い側の論理であり、権力側に奉仕するイデオロギーではなく生活世界を構築するイデオロギーとしての建築なのであろう。おそらく「オルタナティブ・デザイン」というのは対象ではなく意識の問題であると思う。あらゆる建築行為はその表裏の関係にあり、どこでも誰でもすぐに取り組めるものである。意識さえ持てば、建築という概念は拡張し、ハードウエアとソフトウエアの双方をデザインする主体として認識できるのかもしれない。

ESSAYの「象徴の力」では建築の象徴がいかに権威とか権力に利用されてきたかということが書かれている。権威とか権力というものは目には見えないものであるから、それを表象することで始めてその存在が理解されるのだ。時には実態のないものを表象行為によってあたかも存在するように偽装することも可能である。だから建築の象徴の力は現代では資本という権力が利用しているのではないか。「金属とガラス」ではその象徴の力が獲得できないとされるが、モダニズムの建築には権威や権力を無化するイデオロギーが内在している。しかし、建築の象徴は静的で閉じた形態そのものにだけあるのではなく、人間の行為を含む動的な関係性のなかにも存在する。ベルリンの国会議事堂では、ガラスでつくられたクーポラから誰でも議事の様子が見学できる、という仕掛けで民主主義という眼には見えないものを象徴しているのだ。


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