「新建築」2006年5月号 月評
 建築でも家具でもないもの、または、建築でもあり家具でもあるものをアーキファニチャーという。この場合、建築とは秩序を指し示す空間であったり社会的制度を表象するもので、家具とは人間の動作や身体のスケールに対応しているものであるという認識がある。建築とは脳であり家具とは身体だ。このアーキファニチャーという言葉は学生の時読んだセドリック・プライスの文章のなかにあったような記憶があるのだが定かではない。当時、身体スケールを超えた巨大な家具で満たされた空間や装置化された家具が空間のなかを自在に動くプロジェクトを知って建築という概念が拡張するような気がしていた。

4月号の巻頭論文は隈研吾の新建築住宅設計競技の課題趣旨説明である。コンペの課題を解説する文章を巻頭論文にするというのは新鮮な試みなのだろうか、そのタイトルは「パドックからカラオケへ」である。概念解体の妙手である隈の文章に誘われて読んでみると、「パドック」という比喩はこの新建築住宅設計競技そのものを超えて「戸建て住宅」の設計という若き建築家達の参画する土俵であり、その後の「本レース」という公共建築などの本格的な建築という土俵の存在が示唆されている。そこでは「戸建て住宅」の設計という「パドック」で見事な成功を納めれば「本レース」に引き上げられるという業界という枠組みが紹介される。さらに課題の「プランのない家」に関するプラン(平面)の説明として「新しいプランの呈示」という「人間関係の本質を規定する社会的で高尚な行為」が有効性を失っているという疑問を投げかける。最後にそれまでの文脈をすべて止揚して建築界は「カラオケ」だ、というところが無責任というべきか面白い。

4月号の誌面構成を見てみると前半に隈の言う「本レース」にあたる公共建築群が並べられている。隈の文章のなかにスケールが大きくなるとプランの意味が変わるという話が紹介されるが、ゑしんの里記念館/恵信尼公御廟所、時雨殿、葛生伝承館は、要求される機能に対して空間のスケールが十分に大きいため、いずれもプランの問題と言うよりは風景の問題となっているようだ。そのなかでもゑしんの里記念館の平面では外部空間も一体となったランドスケープとして紹介されている。

それに対して学校建築とは人間集団を制御する装置であるからプランが重要な設計手段である。紹介されているのは高校、中学、小学校という対象年齢の異なる学校なのだが、どの平面もクラスルームを空間単位とした形式となっている。これは日本の教育制度によって決められている平面形式であるが、大空間のなかに家具だけで構成される「プランのない学校」というものも存在する。いずれにせよ学校建築にこそ人間の動作に対応する家具の提案は重要であるはずなのだがどの作品にも家具に関する記述はない。

そして誌面構成の後半は特集の「建築家のインテリアデザイン」なのだが、これは隈の言う「カラオケとなったパドック」を暗示しているようである。そこではまるで「プランのない家」の解答事例が丁寧に紹介されているように思える。平面図とは機能の表記であり、機能に対応した空間の分節とは人間の行為に秩序を与える手段である。とすれば、プランがないということは秩序という人間の行為を抑制する脳を切断し身体だけで空間を記述することなのだろうか。隈の言葉によると「身体によるスキャニングという手法によって空間を記述する」ことになるのだが、そこではテクスチャーを持つ床の集積であったり、空気の温度分布であったり、風の流れの場として記述することが可能であるとされる。シェルハ バイ アフロートは光の分布、LOTUS BEAUTY SALONは床のテクスチャー、UTSWAは家具だけで記述される空間ということなのであろうか。

KID'S REPUBLICは建築でもなく家具でもないアーキファニチャーである。これらの作品は確かにプランという二次元平面では記述できない。沢山のショットと展開図や伏図、アイソメなど図学表現を動員して説明されている。このような仕事は商業建築としてすでに確立している領域であり、別に建築という概念が拡張されたわけではないが、新建築誌の編集の枠組みからすれば扱う対象は革命的に拡張しているのだ。

4月号が送られてきて、最初はあまりのとりとめのない編集に驚いたのだが、巻頭論文のテキストを案内として構図が読み解けたような気がした。この号は新建築住宅設計競技応募者必読書なのだ。しかし、私がこの号で一番興味深いと思ったものは連歌ランドスケープで紹介されているMFOパークだ。いつか必ず訪れたい。  


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