「新建築」2006年8月号 月評
今まで気づかなかったのだが巻末に「先端技術探偵団がゆく」という地味な連載があるのを発見した。探偵団は今井公太郎、南泰裕、中西泰人の三名で、それぞれ素材技術、環境技術、情報技術を担当している。おそらく編集部ではこのあたりの技術革新が建築の姿を大きく変える可能性があると考えているのだろう。昨年の8月号からスタートして不定期で今回が連載第八回めとなっている。7月号は「先端技術のゆくえ」と題されて三者が大枠の概説をしている。気になってバックナンバーを読んでみた。どのレポートも興味深い内容なのだが「探偵団」というよりは「評論」である。 内容を客観的に評価して紹介しているのであるが、読んでいても驚きがない。藤森さんの東京建築探偵団のような無責任さがないのである。学問的というか科学的な態度で書かれているのは、三者共にとても真面目な方なのだろうと思った。技術というものはアプリケーションが用意されなければ私たちには認識できない。 知識の深い三者にはそのタガをはずして先端技術の可能性の極限まで探偵してほしい。「今のところ環境技術においては素材の開発のようなドラスティックな発明はあまりないんですね。むしろ、既存の環境技術をどうやって編集し直すか、あるいは周辺環境との関係の中でどうアプライさせるのかという文脈が多いような印象を持ちます。」なんて言わずに、その既存の技術の編集にどんな可能性があるのか、周辺環境のなかで技術のアプリケーションはどんなものがあるのか見せてほしいと思った。評論ではなく先端技術を探検して僕たちをワクワクさせてほしい。

「連歌ランドスケープ」で紹介されているヘルツォーク&ド・ムロンのドミナス・ワイナリーの蛇カゴのスクリーンは圧倒的なイメージアビリティを持っている。初めてこのプロジェクトを知ったときの興奮をいまでも良く覚えている。蛇カゴのスクリーンは、カルフォルニアの乾いた風を通しながら日差しを深く遮るものとなり、ワイナリーの気候環境に対応しているように見える。しかも、その素材は土木で日常的に使用されている安価な蛇カゴであり、その蛇カゴに詰められているゴロタ石は地産の物だという物語が用意されている。 建築でも土木でもなく風景となったこの蛇カゴは、どこか論理の破綻はあるのかもしれないが、そんなことは無関係に、誰もがその存在の仕方に新鮮な驚きを感じたのだとおもう。隈研吾の「ちょっ蔵広場」も「宝積寺駅前グリーンシェルター」はどちらもこのドミナス・ワイナリーの解題である。 「あいち海上の森センター」は環境破壊を問題にされた博覧会の施設であるが、その対応として最先端の環境技術やデザインロジックは用いずに「普通の物」として答えたと説明される。政治的な判断がありそうだが「普通」とは何か、私には理解できない。外構に蛇カゴが大量に使用されているが、それをテーマとはせずあえて語らない。「東京工業大学緑が丘1号館レトロフィット」は炭素繊維巻き補強とエネルギー吸収ブレースを用いてスマートな耐震補強が行われている。 このエネルギー吸収ブレースを支持材として半開放型のダブルスキンを形成しているのだが、人工木とアルミ押出し型材のルーバーは良く検討されているようだ。角度が固定され回転しないこのルーバーは、夏期は受光面となる人工木は熱伝導が低く、冬期は太陽光の入射角によって裏面のアルミがライトシェルフとして働くようである。制振技術は炭素繊維や制振用アンボンドブレースなどの先端技術が使用され、環境技術は既存技術の編集なのだが、この人工木とアルミ押出し型材のルーバーには高度なノウハウがあるように思えた。耐震補強改修工事という技術的要件に環境対応やファサードという視覚操作まで取り込んでしまった計画技術(政治力?)に感服した。しばらくはドミナスの呪縛は解けないかも知れない。

「瞑想の森 市営斎場」の写真を見てトロハのタチラ・クラブを思い出した。何か懐かしいこのフォルムは風をはらんだやさしい布のようであり、建築関係者でなくても原初的空間風景としてノスタルジーを感じるであろう。シェル構造自体は先端技術ではないが、この大小さまざまな凸凹を繰り返す自由曲面シェル構造の最適解を得る技術は大変に高度なものだと思う。庇先端に超親水性光触媒を塗装するだけで、特別な端部のディテールは作らずザックリと屋根スラブの切り口厚をそのまま見せている。モノシリックに作られた空間は手数が少ないだけ、それを実現させた膨大な検討が背後にあるのであろう。見切りもない手数の少なさによって、空間はそのボリュームと満たされる光だけに還元され、静かなたたずまいを創り出している。 葬儀場とは会葬者のためにある。火葬炉の口を目にするとき「人が、人ではなく物になった」と感ずる瞬間なのだが、ここでは炉口を壁と完全に同一としてその瞬間を静かにむかえられるように配慮してある。この空間を使わなくてはならなくなった人に対する細心の心遣いがなされているのがわかる。そこでは、死を荘厳なものとするのではなく、死を生の幸福と同一するニルバーナを体験する空間ができているように思えた。  


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