「新建築」2006年9月号 月評
「アヴァンギャルドであり続けることを自らに課した孤高の建築家」という長すぎるタイトルの藤岡洋保の文章は、篠原一男という建築家をこの一文としたタイトルだけで総括してしまおうという意志が感じられる。そして、たしかにそうだと納得してしまう。篠原一男の言説は既成の概念を拡張する最も遠い境界を示していたように思える。建築というものが経済行為であり社会的な存在であるからこそ、建築家というものはアヴァンギャルドという野生を持たなければ社会の中であたりまえというものに容易に回収されてしまうのだ。逆にその臨界線を拡張する運動の前衛に立つ者を建築家というのかもしれない。

8月号は集合住宅特集となっているが、デザイナーズマンションという社会の中で飼い慣らされてしまった建築はどれも同じに見えてしまう。藤岡さんが篠原一男の「すまいというのは広ければ広いほどよい」という言葉を紹介しているが、どれも同じに見えてしまうのはスケールの問題であるのかも知れない。集合住宅を構成する単位としての住戸は巻頭論文「デザイナーズマンションという戦略」の資料図面に示されるように20uから40u台がボリュームゾーンであり、集合住宅という建築物はこの同じような規模の単位の集合形式でしかない。解にさほどの多様性はない。

では現在、集合住宅を扱う主題はどこにおかれるのか。篠原聡子は巻頭論文において、賃貸の集合住宅は市場原理に直接的に対応する商品であるために、長期的な視座にたった都市を組成する建築とは成り得ていないのではないかという疑問を投げかけているが、同時に大規模開発による高層住宅を批判して、「細分化された土地の中で、場所を読みながら、身をくねらせながら、必死にあり様を模索する小規模な「デザイナーズマンション」の方がよほどましな戦略なのである。それによって、維持される場所の連続性と同時にさらなる土地の細分化に歯止めをかける意味でも。」とも書いている。

都市は住居で埋め尽くされている。その都市の「地」を形作る住居が変容することによって都市は急激に再編されていく。都市や社会のあり様によって住居は容易に変容するのであるが、その変容する背景を意識することで建築家がとる立ち位置の最前線が示される。slash/kitasenzokuは微細な周辺環境の読み取りから集合の形式が決定され、その操作によって外部空間と住戸内の空間配列が決められている。土地の細分化を防ぎながら、住宅地の空地のネットワークを紡いでいく。そこには経済原理だけではない計画の意志が存在する。自らの都市への態度を表明するようなswitchや、極端に劣悪な敷地与件を丁寧に読み取って、身をくねらせながら、必死にあり様を模索するKEMや「恵比寿の長屋」なども同じくその最前線にある。

「オーナー住居のある集合住宅」という小特集が組まれているが、篠原さんの巻頭論文の指摘に反応してか、投機目的の集合住宅ではない文脈をそこで探ろうとしているように思える。土地を手放すことなく集合住宅とした中にオーナー自ら住む。継続してその土地に住むということで共同体は継続され、土地は自分の物であるから損益分岐点はかなり低く抑えられる。「オーナー住居のある集合住宅」は経済活動の中に回収される傾向の強い事業用集合住宅とは異なる構図でつくられるのだ。通常は最上階のペントハウスに大きな規模のオーナー住戸が乗せられ、下階に経済装置としての貸家が設けられる。そこでは事業用集合住宅とは異なり、継続する共同体に加え賃貸人を巻き込んだ新しい共同体の意識や場所の継続性が図られているようである。都市再編の最前線を探るためには、都市や社会に対してもう少し精度を上げた視点が要求されるのだろう。

STAND POINT「梶原文生/都市デザインシステム」を読んでとても共感した。建築は建築だけで自律しているのではない。社会や都市というシステムの関係性の中に存在しているのだ。というあたりまえのことを気づかせてくれる。都市デザインシステムの仕事を説明する中で「かつて、鉄やガラスといった新しい素材の登場によって建築が変わったように、また流通や生産体制の整備によって建築構法が変わったように、その時代特有の変化が建築には大きな影響を及ぼす。」と書かれるが、そこは、まさに建築という領域を拡張させている現場である。篠原一男は建築という意識された領域の中で臨界線を示していたのであるが、都市デザインシステムという自在に臨界線を拡張する運動は新しい建築のあり様を予感させる。ここに生きていて良かったと思える社会をデザインすること、それを表現するのに最も有効なメディアが建築というものなのだ。  


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