「新建築」2006年10月号月評
1970年台初め、私が学生の頃、「ホワイトとグレイ」という論争があった。a+uで特集されたこともあって当時は話題になっていた。ホワイトというのはニューヨーク・ファイブといわれたJ.ヘイダック、P.アイゼンマン、M.グレイブス、R.マイヤー、C.グワイズミイによって作られた住宅またはそのプロジェクトがコルビュジエの「白の時代」をモティーフにしていたこと、機械のようにアーティキュレイトされた部品で組み立てられ、それが白い平滑な壁体で表現されていたことで「ホワイト派」と呼ばれた。その理論的な支えはコーネル大学のコーリン・ロウである。それに対する「グレイ派」はV.スカーリーを理論的支柱とし、R.ヴェンチューリ、C.ムーア、R.スターンらを中心メンバーとするもので、伝統的な様式やモティーフを取り込み、プレゼンテーションに使われる模型はカードボードと呼ばれるグレイのボール紙で作られていた。このような二項対立の分かり易い図式であったため容易にこの論争に入ることができた。このような論争の背景には、モダニズムが排除してきた曖昧性や折衷主義を再評価し、慣習を非慣習的に用いる手法を提示したR.ヴェンチューリの「建築の多様性と対立性」(1966年)があった。そして、そこでは近代主義が行ってきた建築的態度を「エクスクルーシブ(排他的)」であると批判し、より広いカテゴリーから形態要素を引用する態度を「インクルーシブ(包括的)」であるとした。「ホワイトとグレイ」の論争は「エクスクルーシブとインクルーシブ」の論争でもあった。

 前置きが長くなってしまったが、巻頭対談の「図式とルール」を読んでいてこの「ホワイトとグレイ」の論争を思い出した。西澤立衛と青木淳のこの対談は建築の批評性のレベルを高く保って互いに語られる。対談の最初に西澤が提出した設問がとてもクリアだ。「青森」が青木の個人的な表現であること、そして体験する空間が物語的映像のようであることが指摘される。初速のスピードが大きいため誌面はあっという間に尽き、結論は見ぬままに青木の「判断の束」という状況解説のセクションで終わっている。対談の中で持ち出された「図式とルール」という概念の説明は、かつて「ホワイトとグレイ」という二項対立の論争が、S.コーエンの「物理的コンテクストと文化的コンテクスト」という概念の提示によって、対立概念ではあるがレイヤーの異なる問題であると止揚されたのに近い。この対談のなかで青木が持ち出す、凸凹のかみ合わせを「既存の空間」という他者性をもった図式とする話しは、この対立概念を層別化して「ホワイトであるグレイ」というような操作要件にしてしまった感じである。いずれにせよ同時期に構想され相次いで完成した「金沢21世紀美術館」と「青森県立美術館」は語るべき事柄は多い。それが、建築は何のために構想されるのかという根源的な問いに向かう議論になることを期待したい。

作品が空間に先立つオートノマスな作品がホワイト的であり、空間が作品に先立つサイトスペシフィックな作品はグレイ的だという視点がある。今年で3度目となる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006」は「大地の・・・」と題された芸術祭であることもあって、作品の多くはその場所のナラティブなコンテクストから生成されている。だからこの芸術祭で展示されているほとんどの作品はグレイ的である。その状況を俯瞰したようにドミニク・ペローは「バタフライ・パビリオン」の説明のなかで「コンセプチュアル建築とナラティブ建築」という対立概念を持ち出して、場所のコンテクストとの関係で自らの作品を説明する。ここでも「ホワイトとグレイ」の論争を思い出させる。「コンセプチュアル建築」はホワイト的であり「ナラティブ建築」はグレイ的である。そしてドミニク・ペローは自らの立ち位置を「コンセプチュアル建築」であるとして、「ナラティブ建築」であるとするジャン・ヌーベルとは異なる場所に自らを位置づける。そして、それは二項対立ではなく建築に対する態度の問題であることが明言される。これは建築の批評性に関わる問題なのだ。

「情緒障害児短期治療施設」は無造作にばら撒かれた離散集合体のようにみえる。この「ばら撒く」という一回性の動作は、M.デュシャンのストッパージュ(1mの糸を自由落下させた偶然性の作品)のように主体の意志が不在であることを示している。このばら撒かれた箱を「既存の空間」として子ども達の生活空間という機能が組み立てられているようにみえる。ばら撒かれた箱というこの「既存の空間」は「青森」の凸凹のかみ合わせよりも脱力して透明である。そのためかここでは時間的位相は感じられない。ただ「ばら撒かれた箱と、箱の間に生まれる意図しない空間」という図式だけが示されているのだ。この図式は森山邸のように学生達の間で展開されコピーされるものになるのかも知れない。

 ところで、PALAZZO GRASSIは時間の中に存在する「既存の空間」そのものだ。ヨーロッパの建築家達が相手にしなくてはならないコンテクスチャリズムはまさにここにある。  


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