再読「神殿か獄舎か」
1970年代、日本の都市に対して仕掛けた爆弾
 この文章を書き始めた今日は、61回目の敗戦を記念する日で朝から小雨が降っている。テレビでは小泉首相がその当日に靖国神社に参拝したことに中国と韓国が抗議を表明していることを伝えている、国内では小規模なデモは行われたようだが平穏だ。NHKの特別番組によると首相の靖国参拝に20代、30代では72%が賛成している、驚いたことに私の世代でも52%が賛成だそうである。あの時代ならこんなに楽に靖国神社には行けなかっただろう。あの時代とは「神殿か獄舎か」という文章が書かれた1970年のころである。

 1968年のとき僕は18歳だった。その年の五月、パリのカルチェラタンで始まる学生を主体とする反政府示威運動は、都市内の空間をバリケードで占拠しそこを「解放区」と呼称するという方法を示していた。ドイツやイタリアの都市でも同様の解放区が生まれたようであるが、日本でも神田や京都の百万遍に解放区がつくられた。そして安田講堂が占拠され、僕たちの世代は東大の入試がなかった唯一の世代となった。1970年前後のこの時代は、第二次世界大戦が終了したあとのベビーブーマーが大人となる時代だった。パリの五月革命の背景は今では、シチュアシオニストの指導者ギー・ドゥボールの唱えた「スペクタクルの社会」に言及されるが、その時は私はそれを知らない。表面的には身近な大学の制度改革から始まり、反政府(無政府主義)運動に展開し、それがマルキシズムに回収されるという構図は、ドイツ、イタリア、そして日本でも同様だったと思う。同時期にアメリカではマイノリティの権利を主張する公民権運動とともにベトナム戦争に反対する反政府運動が活発となっていた。日本では、日本に駐留している米軍が直接ベトナムを攻撃する作戦に参加していることで、日米安保条約を結ぶ日本政府に対する抗議運動であり、反戦・反米運動でもあった。

 この長谷川堯の「神殿か獄舎か」を読むと、僕はその時代に意識が戻される。その頃、よくは分からなくても羽仁五郎の「都市の論理」や吉本隆明の「共同幻想論」を誰もが読んでいた。都市や国家という枠組みを日常的にリアルに感じていた時代だ。前号の松岡正剛が、あまりにその時代の気分をリアルに描写しているのでそれを引用すると「安保やアメリカニズムだけでもない。膨張する都市そのものや、ユニバーサリズムがもたらす速度とも対立せざるをえなかったのだし、それに抗するアーキグラムの自動性やC.アレグザンダーのセミラティスにも切りこまざるをえなかった。伝統に逃げるわけにもいかない。建築界による継承を拒絶する白井晟一の好みの手法を見極め、スターリニズム傘下の日本共産党のイデオロギーとも、その逆を行く反代々木の革命的ロマン主義とも軛を断つ目を養っておかなければならなかった。」そうなのだ、確かに何が正しくて、誰が敵なのか何も分からなかった。それでも自己批判をさせられ、自分が何者であるか表明しなければならなかった。時代は政治的であり、社会は回転して動いていることだけはわかっていた。

 誰でも建築学科の学生になって、初めて建築の世界を知るのであるが、僕が学生の頃は建築の世界では1960年代半ばから始まる近代主義批判が明らかになりつつある時だった。いくら読んでも分からないベンチューリの「建築における複合と対立」を理解しようと原書を当たったり、C.アレグザンダーの「都市はツリーではない」を理解するためにはCIAMやアテネ憲章を知らなくてはならないことを知った。学ぶべき事柄が山のようにあった。

 長谷川堯の文章は何編か雑誌に掲載されたものを読んだ記憶はあるが、1972年に出版されているこの「神殿か獄舎か」という本はその時代には読んでいないと思う。「神殿」と「獄舎」という言葉からM.フーコーの「監獄の誕生」を連想したが、その出版は1975年なので関連はない。いずれにせよ市民社会をむかえる近代までは、建築というものはそれが宮殿であっても監獄であっても強大な権力に奉仕するものであった。M.フーコーは、社会全体にかけられた監視の目と処罰を扱うことで、人間が創り出した人間を管理し抑圧する社会システムそのものを明らかにし、監獄や学校、病院、兵舎などの建築がその抑圧の装置であったことを克明に記述するのであるが、長谷川堯が「神殿か獄舎か」で扱う概念はそれほど単純ではない。「獄舎」では概念が倒立し、中世都市の空間を案内役として「都市の論理」に書かれていた「解放区」を暗示しているように読める。そして「神殿」は吉本の言う「共同幻想」としての国家なのかもしれない。または近代主義であったり、近代以前の権力と読むのかもしれない。

 読み進む中で、不勉強な私には初めて知る後藤慶二という建築家に、論の展開の中で狂言回しとしての役が与えられているのに気づく。この「神殿か獄舎か」という本の表紙にも使われている後藤慶二が設計し、大正4年に竣工している「豊多摩監獄」を、長谷川は「私たちは明治以来の建築の中ではじめて、この建築の上に、日本人の建築家の姿と立場をはっきりと見出すことができる。」と評価する。私は歴史を専門としていないので畏れを知らずに言えば、「私には歴史を組み立てる作業はいつでも〈狩猟の気分〉とでも呼ぶような軽い興奮をともなっている」と長谷川自身が書くこの本のあとがきにあるように、後藤慶二という建築家を歴史のなかでこのような位置づけを与えるという「組立て作業」が長谷川の手で行われているように思える。そこで組み立てられているものは何か。それは、ヨーロッパで起こった建築におけるモダニズム運動とパラレルに、日本でも独自の近代運動のルーツがあったということを捏造することではないかと思う。

 1970年前後、世界中のベビーブーマー達が大人になり社会に参入するころ、その社会はすでに巨大な資本主義のシステムに固められていた。ギー・ドゥボールの唱えた「スペクタクルの社会」とは、アメリカ的な大量生産、消費に覆い尽くされた世界のことを指す。1968年、カルチェラタンから始まる学生達の既存体制への異議申し立て運動は、実はアメリカ型資本主義への抵抗であったのではないか。同時に第二次世界大戦で唯一戦場とならず、戦後の富を独り占めしたアメリカという国家がその覇権を持続させるために仕掛けた文化戦略に対する嫌悪感でもあった。ここで、長谷川堯の暗示する「神殿」はアメリカニズムであり「獄舎」はリージョナリズムであるようにも読める。

 「神殿か獄舎か」が出版された翌年の「都市住宅」誌に「都市ゲリラ住居」と題する小論が発表されている。そこには、何かに怒ったような眼をむける安藤忠雄という青年の写真と、丁寧に英字新聞でくるまれた周辺模型の中に提案する住居が埋設されるように置かれた写真が載せられていた。この自らの提案する住居模型は真っ黒に塗られ、何かを求めるように開口部が突き出ていた。「都市ゲリラ住居」はアメリカ文化に包囲された日本の都市に仕掛けた爆弾のようである。周辺模型が英字新聞でくるまれていたこと、本来主役であるべき提案する建物が黒く塗られていたこと、そして、それが都市に埋蔵するように閉ざされたものであったのが強く印象に残っている。

 この安藤忠雄が提出した建築は、長谷川堯が「神殿か獄舎か」の文章の結語に示す来るべき建築である「獄舎化した建築」の要件をすべて満たしていた。そして、「来るべき獄舎的建築の判断ための、最も原始的なものさしとして、いま三つの〈D〉(Defence、Dimensions、Detail)をもっている。あとは待つだけだ。」と記している。この長谷川堯の文章は安藤忠雄という建築家の登場を予告していたように私には思えるのだ。そして、その後、その安藤忠雄の「住吉の長屋」、原広司の「自邸」、石山修の「幻庵」、毛綱毅曠の「反住器」など、内部に「解放区」のように不思議な、そしてファンタジーに満ちた内部空間をもつ建築が立て続けに出現する。1970年代、日本で造られたこの一連の住居は近代合理主義に反意を示した建築である。そしてこの一連の自閉的な住居は、豊かなアメリカのプロパガンダとして使われたCASE SUTADY HOUSEというアメリカニズムの住居から最も遠い位置を保とうとしていたように見える。それは、日本の文化というリージョナルな枠組みのなかで成立した特異な建築であった。と思う。

 蜃気楼のように現れたこのリージョナリズムは、1980年代には資本に回収され商業主義ポストモダニズムに移行していった。そして現在。「神殿」と長谷川堯が表現した権力機構は私たちの認識をはるかに超えたグローバリズムという巨大なものに成長し、個人では認識できない透明な存在となった。今では、誰もその「神殿」に抗うことなど意識もできないのだ。

 -INAX REPORT No.168-  


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