「風景論」書評
内藤の静かだが熱い文章を読み終わって、彼は文明について語りたいのだろうということがわかった。 内藤は文章がうまい人だ。少し前に「建土築木」というエッセイ集を送ってもらったのだが、「建築」と「土木」を組み合わせたタイトルも粋なのだが、文章を楽しんで書いているのだろう、あっという間に読んでしまった。一度、対談をしたときに彼の口述した言葉をテープ起こしした文章はそのまま筋の通った文章となっていたのに驚いたことがある。彼は思いつきでは発話しない。発話をためらうようにしばらく沈黙し、おそらく自らが語ろうとした言葉が最後まで見えたとき始めて発話するようにみえる。

この「風景論へ」では、概念を言語化するために慎重に言葉を選んでいるのがわかる。文章は「建土築木」のようには流れない。読み手にも相応の思考を要求する。彼は最大限の時間の大きさと最大限の空間の大きさの中で論を展開しようとする。そして、言語の不確定性を承認しながらも、言語の指し示すものをさらに厳格に規定しようとする。

僕は内藤と同じ年、20世紀のど真ん中、1950年生まれだ。だから彼と同じ時間をこの国で過ごしている。この世代は二度の時代の切断を経験している。切断という感覚は今の学生の世代には理解できないかもしれないが、それは内藤が文中で何度も用いる「時代の潮目」だ。僕たちの世代は高校を卒業しようとする1968年という年をはさむ学生闘争の時期と、建築家として社会に乗り出そうとしていた1980年代後半のポストモダンの時期に「時代の潮目」を見ている。「時代の潮目」とはその前と後でパラダイムが明確に代わるのだ。そんな切断を経験していることで、僕たちは社会の虚構性が身体的に理解できている世代だといえるかもしれない。

24歳の時、新建築の「月評」で大人に混じって果敢に建築批評をする内藤廣という学生の存在を知った。そのときは彼は同じ歳なのに何年も年長の人物のように感じたのを覚えている。 1960年代半ばから始まる建築における近代主義批判は、丁度僕たちが学生の頃にその方向性が見えてきていた。磯崎新の「建築の解体」によってカタログブックのようにその行き先がいくつも示され、それに呼応するように自意識を強く主張する作品群が当時の若手建築家達によって発表される。その若手建築家の作品を内藤廣という学生が批評をする。その批評に強く反発する建築家のひとりが「まだ実作もない者には批判する資格がない」と糾弾すると「いずれ時間が来れば必ず実作でお見せする」と反論している。

1968年の学生闘争はパリのカルチェラタンで始まる五月革命を端緒とする世界的な学生の革命闘争であった。第二次世界大戦の後、主要国では都市化の進行とともなって巨大な資本があらゆる事柄を支配していき、学生達にはその枠組みに組み込まれていくような感覚があった、その傾向に対して異議申し立てをしていたのである。この「潮目」は単に学生の問題ではなく社会そのものの切断面でもあった。建築というものは社会的状況と連動している。 1970年代前半の日本で展開された建築は、この近代主義批判が主題となるのであるが、まだ学生であった内藤は、「月評」のなかでこのような建築の虚構性を厳しく批評していた。そしてその後、「共生住居」と題した自邸で自らの立ち位置を明らかにする。限界のようなローコストで作られたというこの住宅は、あらゆる部分が考え抜かれた理性的な建築である。それは、モダニズムの初期の建築がもっていた倫理観を感じさせる建築であった。近代主義批判として過剰な自意識が表現される状況に対して、内藤はもう一度誠実に近代主義の黎明期をトレースして見せることで答えているのだ。

そして1980年代後半、日本では経済のバブル期と重なって建築におけるポストモダンという表現が支配的になってくる。1968年の学生闘争では、巨大な資本によってあらゆる事柄が支配されていくような不安がこの闘争の根底にあったのであるが、1980年代後半には確実にさらに巨大となった資本によって社会が支配されることが明らかになっていた。そして建築もこの巨大な資本という権力に利用されやすい様態に変えられていったのである。 建築におけるポストモダニズムはその本来的意味が捨象され、資本に奉仕するために倫理観が解除された建築となった。ここでは建築は文化を表象するものではなく経済の便利な道具となっていた。この時期に内藤は「海の博物館」の仕事をしている。自邸と同様、限界のようなローコストで作られたというこの博物館は、これも自邸と同様あらゆる部分が考え抜かれていた。ポストモダンという建築には経済的余剰が担保する遊戯性があるとすれば、この建築にはそれとは全く対称な経済的極限のなかで生み出されていた。「海の博物館」が作られたこの時期も時代の潮目なのだが、1990年にバブル経済が崩壊するまでは誰も気づかない。バブル経済が崩壊したとたん資本という権力に奉仕していたポストモダンという建築はその虚構性が一気に露呈し、姿を消してしまう。「共生住居」も「海の博物館」も「時代の潮目」に建つ仕事であったことが理解できる。

20世紀の後半に経験した「時代の潮目」は、私たちの生活を支配する資本に対する抵抗であった。 その「潮目」を経験するたびに資本権力は巨大となり、現在では国家や地域の枠組みも乗り越えて私たちの生活を支配し、その存在を認識することさえ困難になっている。「潮目」とは異なる運動で引き裂かれるような状態を示している。この『住宅建築』の内藤特集はおそらく内藤の住宅を特集する企画だったのだと思われるが、内藤はこの誌面を使って「風景論へ」という議論を提出しているようだ。そしてこの議論の中核は「潮目」の話である。この文中に「時代の潮目は変わりつつある」と何回か書かれる。読み進める中でその「潮目」とは「場所」という言葉に表象される「潮」と、「土地」という言葉に表象される「潮」の「潮目」であることがわかる。「土地」という言葉には1968年の切断そして1980年代後半に「潮目」をつくった資本の権力とつながる概念が与えられている。「土地」は資本の活動のための便利な道具であり、交換可能な計量可能であるものとして認識される。それに対して「場所」は計量不可能な文化そのものなのだろう。 内藤の文章では意図的に使用されていないが、ゲマンシャフトとゲゼルシャフトの二項対立のようにも読める。

20世紀は「場所」を「土地」に置換してきたという主張は、20世紀とは文明が資本という権力に絡め取られてきた世紀であったということだ。私たちの眼前に風景として出現しているものはその置換運動の結果生まれたものだ。この百年で起きた文明の展開は時間を逆行させることは不可能であるが、この引き裂かれた状況を止揚する潮目が予告されているようだ。

時代の変化とは人の知覚からはあまりに緩慢なので認識できない。人はその時代の只中にいる限り時間は日常の連続でしかないのだ。時間を俯瞰して初めて見えるのだが、世界には何度も時代の潮目がある。建築という世界にいる僕たちが知る最も大きな潮目は、20世紀初頭のヨーロッパで建築におけるモダニズムが起ち上がった切断面であろう。内藤は冒頭に「二十世紀の建築とは何であったか、と問うことは、二十世紀とは何であったか、と問うことに等しい。」という言葉から始める。 この世紀という時間概念はキリスト教世界が設定したものでしかないのだが、内藤の文中にも引用される塚原史が『言葉のアバンギャルドーダダと未来派の20世紀』の中で、プルーストとマリネッティの言葉を引用しながら「こうして、20世紀初頭の10年ほどの時期には、人びとの想像力のベクトルが逆向きの2つの方向に分裂していたように感じられるのだが、それはあきらかに、この時期がある時代の終わりとつぎの時代の始まりの間に位置していたことの兆候だった。」という文章でヨーロッパでの20世紀の始まりを記述している。それは、第一次世界大戦が勃発した1914年とロシアにコミュニスト政権が誕生した1917年をはさむ短い期間にヨーロッパの人びとが共有した時代の潮目の感覚である。この同時代意識という感覚が存在した背景にはひとつの時計を共有する近代市民社会が存在し、そこでは既に生産と消費、文化とコミュニケーションの巨大なネットワークが組織されていたことを示している。建築におけるモダニズムはこの成熟した近代市民社会における意識の変革を背景とした建築運動であった。

それから世紀の時間を経て、新しい「建築」という概念が確かに生まれるのかも知れない。そんな予感は共有している。  


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