職住混在と共同体
SOHOタイプの集合住宅
この原稿を書いている時、SOHOタイプの住居を研究しているというロンドン大学の研究者が私の事務所を訪ねてきた。たまたま海外の雑誌で紹介されていた、戸建ての職住一体となった建築「PLANE+HOUSE」を見て取材に来たのだが、この取材を受けていて、私の住居系の仕事は職住混在となるものが多いことに気付いた。イギリスではゾーニングが厳格に施行されていて、日本のようにいい加減に(?)職住混在が行われている都市状況が不思議で、しかも未来的なんだそうである。情報技術が高度に進化した地域では、大勢の人が集まって一斉に仕事をするような仕事環境ではなく、場所も時間も自由に選択できる仕事環境も生まれてきているようである。

そこで、店舗付き住宅のような戸建ての職住混在ばかりでなく、私たちは集合住宅でもSOHOタイプを提案してきていると説明すると、彼女には理解不能のようであった。SOHOタイプの集合住宅というビルディングタイプというものがイギリスでは存在していないのかもしれない。たとえば「集合住宅20K」では、接地階の9ユニットをSOHOタイプとしている。それは靴のまま使用できるような床仕上げと、大きな開口部でプライバシーのレベルを下げること、ル・コルビュジエのシトロアン・タイプの空間構成や設備のレイアウトなどで住宅らしい設えを排除すること、そんな作法でオフィスを誘導している。その他にも、「PLANE+HOUSE」が10戸連結したような「下馬の連続住居」や「三宿の集合住宅」などでオフィスを誘導するさまざまな空間構成の試みを行ってきた。

そんな話を進めていると、その小さな仕事場で働く人の社会的孤立(social isolate)はどうなっているのかと質問された。そこで、「Klarheit」のガラスパーティションで仕切られたオフィスのワンフロアのようなつくりとなっているアクセス階を見せて、ここは仕事を媒介とする共同体である、と説明した。現実はその意図を裏切るものかもしれない。しかし、働く人たちの共同体ということだけではなく、集合住宅に小規模なオフィスが混在することで、住居専用の集合住宅と異なり、日中も誰か人の存在があり、夜も明かりの灯ったガラス越しに働く人の姿が見えている。という風景は現実のものになる。19世紀末にエレベータが発明され、大きなワンフロアの執務室を多層階に積み上げるオフィスビルというビルディングタイプが生み出され、20世紀にはこのオフィスビルが都市の中心を占めるようになった。21世紀も巨大なオフィスビルというアイコンは都市の中に存在はしているだろう。しかし、人間が生活する都市の主役は、ここで説明したような職住混在だけではなく、小資本の商業空間や身近な公共空間などまでが極限まで混在した世界となるのではないか、と彼女は考えているのだ。

三宿、下馬
 20世紀の都市は、資本にとって都合の良い配置が決められ、人びとの生活はその空間配列によって囲い込まれている。その結果、丸の内などの業務地には人は住んでいないので、休日になると人影はない。同様に渋谷のような商業地は、おもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎで、人の住める場所ではなくなった。東京にはそんな都市の中心から少し離れた住宅地のなかに、洒落たレストランがあったり、自宅を仕事場とするような、エリアが生まれている。世田谷の「三宿」「下馬」はそんな場所である。そこでは、資本の拘束が緩いために、開発ポテンシャルはそれほど高くないのか、昔からののんびりとした町並みが残されている。交通の便が悪いためか、土地の価格が安く賃料も低い。そして、交通の便が良くないから、毎日定時に出勤するのではない、比較的自由に時間が使える人たちが住み始めている。個人でネットワークを使って仕事をする人や、少人数で創造的な仕事をしている人などである。このような人々はその場所に定着して仕事をし生活をしているので、このような人を対象としたマーケットが存在するのか、そんな生活に対応した小資本の店が近くに作られている。

挨拶をする関係をコミュニティという
 20世紀の都市はモビリティを要求した。大量の人が行き交い、個人を特定することはできない。都市にいる人は誰も皆、匿名的である。 「挨拶をする関係をコミュニティという」という話を聞いたことがある。随分乱暴なコミュニティの定義だと思ったが、考えてみると何だか説得力をもっている。小学校の設計をしているときに教育学の研究者から「人が個体識別できる人数は百人を少し超えたくらいの人数である」という話しを聞いたことがある。これは名前と顔、そして、その人の人格というコンテンツまで含めた情報を識別できる量だそうである。人ひとりの持つ情報量は膨大だから、百人を少し超えたくらいという数が限界なのであろう。挨拶をする関係というのは個体識別のできている関係だから、コミュニティの拡がりというのはひとりの人間にとってそのくらいの大きさなのかもしれない。

東京という都市は無目的に歩いていて挨拶をすることはほとんどない。つまり、お互いが個体認識できる相手と遭遇することはまずない。しかし、「三宿」「下馬」というような場所で「定着して仕事をし生活をする人」は否応なく挨拶をする人がいるだろう。都市は仕事の場と生活の場を分断し、人間の分断と孤立を進行させてきた。その分断と孤立を解放するものは、生活のありようという簡単なことなのだ。資本の要求する空間配列に逸脱する生活を実践することで、人は都市の抑圧から自らを解放することができる。

コミュニティの泡
 人は誰もナワバリのような領域を、個体を取り巻く泡のように持っている。そして、個体間の距離がその泡を侵犯したときに挨拶という行為が発生する。挨拶とはお互いの関係を確認する作業なのだ。人は安全の確認のできない相手の泡の中には入らない。人は日常の生活の中で、視線が行き交い、お互いの気配を感じる「コミュニティの泡」のような空間のなかに居るとき、挨拶という行為をする。人は「コミュニティの泡」に絡め取られることで失われていた関係性を回復し、その関係性を調停しなくてはならない。気配りや思いやりを必要とするコミュニティの契機はこの媒介空間の存在にある。

-「Klarheit」「Glasfall」の解説-



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