レムからのメッセージ

北山 恒 

2014年の第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展は、建築世界にとって革命的なメッセージが伝えられるのではないか、という期待にあふれていた。それは、総合ディレクターに選ばれたレム・コールハースが1年以上前から企図していた大胆なヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の改革、それと同時に「建築」という概念そのものの変更を求めるものであったからである。

今回は総合ディレクターのレム・コールハースから各国のビエンナーレを担当する事務局にメッセージが送られており、その内容は「建築家ではなく建築のためのビエンナーレである」とすること。これは、これまでは建築家を作家とみなして招待し、それぞれにインスタレーションを依頼していたのをやめるということである。建築はアートではない。その表現を競うことをすることに意味は無いということを主張しているように思えた。

そして、「過去100年に起こった各国の建築の変容を、ビエンナーレを挙げて追及する。各国館には、このリサーチ・プロジェクトのよき一環となるよう、積極的な参画を求めたい。」とする。これは、建築というものが時間の奥行きのなかで物理的そして文化的なコンテクストを持つものであり、その確認のために展覧会という形式を使ってリサーチを行うという主張である。そして、そこで目指すのは、「今日あたかも疲弊してしまったかのような建築の根本的な可能性とその豊かさを、ビエンナーレ会場全体を使って探り、理解することである。」とされていた。

私は、このメッセージには100年続いた建築のモダニズムの終焉を暗示し、具体的には1980年にP.ポルトゲージのディレクションのよって始まった建築家をアーティストのように扱う建築ビエンナーレのありかたを変えるという意思を感じた。それは20世紀後期から始まったポストモダニズムと呼ばれる差異化される表層的建築言語の使用期限が終わっていることの表明でもある。それはどのようにプレゼンテーションされるのであろうか。

日本館コミッショナーの選考

コミッショナーの選定は、注目すべき言説や建築家、建築関係者を挙げ、この人ならばこのようなプレゼンテーションができるのではないかということを討議して候補者を挙げる。これまではヴェネチアのビエンナーレ事務局からは、全体の方向性を示唆するような大きなテーマ設定はされても、各国のパビリオンの展示内容、コンセプトは各国に委ねられていた。しかし今回、この「レムのメッセージ」によって選考会の道程は大きく歪む。1914年から始まる100年間のモダニズムの受容に関するリサーチを要請するという「レムからのメッセージ」には、そのなかにユーロセントリズムの気配を感じて不快感を示す選考委員もいた。おそらく他の国でも同じような論議があったのではないかと思う。ともあれ、この「レムのメッセージ」を受けて6名の候補者がノミネイトされ、2013年5月14日に6名の候補者が展示内容のプレゼンテーションを行ない、その結果、太田佳代子がコミッショナーに選考された。
 日本館は1956年に吉阪隆正の設計で造られたもので、4本の壁柱で地上から持ち上げられたキューブのような建物である。太田の展示コンセプトは、この日本館の建物を高床の倉に見立て「現代建築の倉」というタイトルで説明する。それは、2階の展示室には、1914年から100年間の日本の近代建築の検証する事物が集められ、床下のピロティでは倉にある事物と連携して会期中継続したイベントが仕掛けられ、そこで生まれる新たな事物が倉に加えられるというものである。他の候補者の展示内容が完成されたスタティックなものが多かったなかで、太田氏の展示コンセプトは未完成でダイナミックなものであった。そして何よりもレム・コールハースの主宰するOMAのシンクタンク部門AMOのキュレーターであったという経歴は、総合ディテクターであるレム・コールハースの意図する展覧会場全体が連動する壮大な試みに同調できる可能性が示されていた。

70年代は日本の切断面である

この選考会の時点では、1970年代を起点にして100年の歴史が詰まった倉となるということであったが、実際に展示されていたものはほとんどが70年代の建築的事物であった。1970年代が日本建築の切断面であり、それを切り取って世界に提示することで現代の日本の建築の成り立ちと、モダニズムという建築運動をリサーチするための良き資料になるという主張である。

展示室内は提案されていた通り、倉のなかのようである。梱包を解かれたばかりのように木箱の上に様々なモノが一見無造作にばらまかれている。プレオープンぎりぎりに間に合った展示物もあるようで、おそらく会期中も出し入れがされることが予感される。私は1950年生まれなので1970年から同時代的に当時の日本の建築世界を体験しているが、展示物はどれも懐かしく、また知識としては知っていたものがリアルな現物として再現してあるのに驚いた。私のような知識の背景を持っているものにとっては宝の山であるが、あまりにマニアックなので、この展示がどのようにヴェネチアで伝わっていくのであるか興味がわいた。たとえば、海老原鋭二の「からす城」の型枠に使ったドラム缶が置いてあるのだが、『都市住宅』で掲載された時の衝撃を知っている者には納得できるのだが、内容を知らない人にとっては展示意図を理解するためにそれなりの手続きが必要となる。展示を理解するためには濃密なコンテクストを読みこむ必要があるのだ。しかし、建築とは一見してわかるものではなく、このように濃密な背景を抱えているものである。というメッセージが、この展示から伝わっている。

高度成長期を経て当時の日本には若い建築家に仕事を依頼できるクライアントが登場していた。1968年にはGDP世界第2位となり、1970年の大阪万博で新しい時代の幕が切られた。そこで日本の社会はテイクオフしていたのだ。今から考えれば、メタボリズムという建築思想を考案した60年代の日本の建築家たちは、西欧世界から流れ込むモダニズムを学習する優等生であったが、70年代の日本の建築家たちは自信を持って独自のリージョナルな建築を展開し始めた。そんな時代である。建築の世界も社会と共にテイクオフしていた。そこでは世界の建築思想と連携しながら新しい建築がダイナミックに模索されていた。日本という国の経済的ポテンシャルと同調しながら、モダニズムを乗り越えようとする早熟な冒険が展開されていたのだ。多様な建築メディアが存在し、建築批評が活発に行われていた。70年代の日本、そこは様々な建築の可能性が試行された時代なのだ。その全部を倉と呼ぶ展示室に詰め込もうとしている。日本館の展示は濃密である。

今から見ると独り言の集積に見える70年代の日本の建築は、60年代のアメリカ東海岸で出題された建築のアポリア(解けない問題)に対する解答を多様に用意した時代であったように思えてくる。そして、この島国で展開した壮大な建築の実験は、後にK.フランプトンにクリティカル・リージョナリズム(批判的地域主義)のひとつとして総括され、片付けられてしまった。そして、1980年にはP.ポルトゲージによるヴェネチア・ビエンナーレ建築展によってポストモダニズムの賭場口が開かれている。

そして、これから

6月6日、プレオープンの二日目の夕方、日本館を訪ねるとテントで囲まれたピロティに大勢の人が集まっている。ビエンナーレの全体テーマである「モダニズムの受容」を語り合うナショナルパビリオン間のクロストークである。塚本由晴が切れの良い論説を展開していた。他にゲストスピーカーとしてチャールズ・ジェンクスやジャン・ルイ・コーエン などが参加し、活気あるシンポジウムが始まっていた。このピロティで展開されるシンポジウムは 倉では過去を展示しているのに対し、現在または未来を語るものになるという重要な位置づけとされている。会期中にワークショップやセミナーがいくつか予定されているようである。

ここで「レムのメッセージ」を読み返してみると、継続されるワークショップやセミナーを行うことが指示されていて、日本館ではそれが忠実に履行されているのがわかる。企画の中で太田とレムが緊密に連携がとれていたことがうかがえる。その対話のなかで大事なことは、建築が歴史と切断されない文化的な行為であることであり、同時に未来を真剣に話し合う必要がある事の確認と、そこでリサーチされた建築が未来に接続するのだという確信である。

多くのナショナルパビリオンは「レムのメッセージ」に素直に反応していた。他のヨーロッパのナショナルパビリオンでは、たとえば、オランダ館では構造主義のJB.バケマ、フランス館ではJ.プルーベ、スイス館ではC.プライスなどが召喚され、それはまるで、第二次世界大戦直後のモダニズムを初期設定する時代に戻そうとしているようにも思えた。いずれにせよ、20世紀末、メディアとの共犯関係で差異化のゲームを行い、権力に回収され消費されてきた建築を、再び人間世界にとって有意味な存在に戻せるのかということが問われているように思える。

会場を一通りみてきたが、レムの真意はどこにあるのか、私自身は未だに謎ときが終わっていない。ただ、新奇な形態を競う消費構造から建築を救い出そうという意思の存在があることを感じた。では、それをどのように実行するのか。それはメッセージを受けた観察者の責となるのであろうか。

 

【2014年7月10+1ウェブマガジン寄稿】