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2017
「現代都市とは、十九世紀第3四半期に北米大陸において産み出され、大量生産・大量消費を基調とする資本主義世界システムとともに、瞬く間に全世界に普及した都市類型である。」(『権力とヘゲモニー』吉田伸之、伊藤毅)
2012
東京という都市を俯瞰してみると、この都市の中心は天皇という一家族が専用使用する広大な森林、その周囲に古くからの良好な都市組織をもつエリア(現在の用途はオフィス、商業、高級な住宅地など)が都市の中心部を構成し、その外に木造密集市街地(用途は完全な住居専用)がリング状に取り巻いている。
2020
「近代から解放されて」というタイトルのこの文章は、2016年の横浜国立大学での最終講義の内容を再編したものである。「近代」とは産業化された以降の時代であるとすれば、日本では明治維新後を指すことになるのだが、ヨーロッパ世界では、産業革命以降の時代を「近代=モダン」というわけではない。
2019
「建築論の問題群」として送られてきた手紙に、「自律性」と「他律性」がキーワードとして扱われていました。それは「作品性」と「社会性」という言葉に置き換えられているようです。
建築が人間の関係性をデザインするものであるとするならば、それは視線をデザインすることである。人と人との関係性を構造化するうえで視線の役割は大きい。人は目と目が合うとき、敵意がないことを示すために挨拶をする。
私がギャラリーIHAで企画した連続レクチャーを、法政大学の北山研究室で書籍にまとめた『建築的冒険者たちの遺伝子』(2017年8月彰国社)という本がある。この本の冒頭に1968年から1991年、パリの五月革命からソ連崩壊までの建築年表を付けた。
この「建築の公共性」を巡る議論は山本理顕さんの発意によって始まっている。趣旨説明のなかで「ど(・)の(・)よ(・)う(・)な(・)建築であったとしても、その建築は発注者のための単なる私的建築ではない。
一九七〇年代から八〇年代、日本では若手建築家による建築的冒険がふつふつと湧き出ていた。それは、西欧文明から発したモダニズム運動への抵抗のようであり、同時に、世界を均質に覆い尽くす文化動向に対する地域的な批評行為でもあった。そしてそれは、日本という西欧から見る辺境で起きた新しい建築の「種の爆発」のようにみえた。
2014
2014年の第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展は、建築世界にとって革命的なメッセージが伝えられるのではないか、という期待にあふれていた。
日本の人口は2008年にピークを打ち減少がはじまった。東京の区部では2006年から世帯人数は2,0以下となり、全国平均も2,0に近づいている。家族という概念が変わってきている。東京の区部では半数近くが単身世帯である。
建築とは書物のようである。読み進む中で物語の構成が次第に読み手の脳の中に投影され、書き手の脳の中と接続される。言語という媒体を介しているために、その内容伝達には相応の手続きが要求される。
2011
「新人賞」という名のつく賞は、何か晴れがましく、社会が新しいものを待ち焦がれている期待感が表明される気持ちの良い顕彰だ。どんな分野でも「新人賞」によって新人は発見され、そのソサイエティに迎え入れられる。...
2007
21世紀初頭、東京の街は1990年代のバブル崩壊の負債をかかえ経済の停滞期を抜け出せずにいた。また経済が不活発であったために土地価格も低く抑えられていたようである。世界の大都市のなかで東京の地価は割安感があるという話を聞いていた。
メコンデルタの運河を走る船の中で、山本理顕さんが俄然元気に動き回っている。いったいどこまで続くのか、真っ直ぐな運河は幅員が30mほどもある。
2006
雑誌の集合住宅特集というのが組まれていても、そこで紹介されている集合住宅のほとんどは東京都市圏のものだ。東京という都市が大きく再編されていく中で、人々が集まって住むという方法も変化している。