既存市街地のリサイクル 「都市組成の更新とは」

北山 恒 

社会の切断面

日本の人口は2008年にピークを打ち減少がはじまった。東京の区部では2006年から世帯人数は2,0以下となり、全国平均も2,0に近づいている。家族という概念が変わってきている。東京の区部では半数近くが単身世帯である。全国の世帯数は東日本大震災で家屋が流されて2011年に大きく減少したが、その後の2012年も減少の傾向が明らかになった。日本では住宅はもう増えることはない。全国で住宅の8軒に1軒は空き家であり、都市部でも木造密集市街地にある未接道宅地では空き家が増えている。
総人口が減衰する中でも東京などの都市圏の人口は漸増し、日本という国は都市型社会に移行している。東京圏は3000万というアジア最大のメガシティを形成しているが、その都市郊外の周辺部(フリンジ)の人口は減り、区部への人口圧が高まっている。1960年代の都市膨張期に郊外に造られた分譲住宅地は市場価値を失い、次の世代が郊外の住宅を引き継がないのだ。同時に、産業構造の変化とともに、都市周縁部にあった工場や倉庫流通用地が分譲のタワーマンションに建て替えられ、この人口圧を引き受けている。2000年代初頭に、超高層の開発を誘導する多数の新たな関連制度が創設され、この収益性の良い不動産物件はその後急激に増加した。現在、東京の超高層ビル(60m以上)は1000棟を超えているそうである。この超高層ビルは東京の都市風景を大きく変えている。
一方、東京の区部の土地所有は細分化しており、そこには120万人の区分所有者がいる。木造密集市街地などの既存市街地は、土地が細分化されて所有されているために構造的な変化は起こりにくい。が、そこでは、世代が交代するたびに家屋が更新され、建物戸別の更新は活発に行われている。このエリアでの建物の寿命は30年を切る。
今を生きる私たちにとってこの状況はあたりまえに思えるかもしれないが、数十年の時間をおいて見てみれば、この時代は大きな切断面であったことがわかるであろう。わたしたちの都市の中では多層の矛盾を抱え込んだ居住にかかわる現象が目の前にある。この都市の問題群を射抜く解答は存在するのか。

人間を定位する都市組成

都市は数パーセントの諸施設(それはオフィスビル、商業施設、学校や病院、行政関連の公共サービス等々)以外、ほとんどの部分は住宅で埋め尽くされている。この匿名的な領域をN.J.ハブラーケンはアーバン・ティッシュ(都市組織)と言ったり、コンテクスチュアリズムを主張する都市概念では都市そのものをアーバン・ファブリック(都市織物)という言葉を使う。それは互いに縫い込まれて連なっている織物のイメージをもっている。アルド・ロッシは「都市の建築」のなかで都市を構成するものを都市的創成物として、それは「本質的に集団的手作りの創成物であり、またそのことによって固有の特質を獲得する」と書いている。都市組成という概念は集団による匿名的な都市創成物なのだ。都市の組成はヨーロッパの旧市街にある連続壁体で作られる街を観察する者と、建物の粒(グレイン)の集合として観察する者では大きく異なる。連続壁体で構成される都市組成を経験する者は、都市をソリッドとボイドとして明確に認識できる。その物性から私的領域と区分するパブリックという概念が日常生活の中で了解される。
ギリシアのポリスにみる連続壁体の都市組成では、市壁に囲われているために都市内と都市外が明確であり、さらに都市内の空間スケールが人間の認識の範囲内であるために、都市の全体像をイメージすることができる。この連続壁で構成される都市空間は私的領域と公的領域を明示し、そして日常生活を組織化するものとして諸施設の空間体験が言語的に働いていた。ハンナ・アーレントは、このポリスという人為的事物の空間体験によって、人間の政治的存在が定位されていると観測する。そこでは、人間を律する法(パブリックという概念)とは建物の壁という実体であるとしている。
日本の都市組成は連続壁体で構成されるヨーロッパの都市とは異なる。それは、独立する建築物の集合として構成されているため、グレイン(粒)の集合として認識される。各建物が周りに隙間のような空地をもつので、都市全体では大量の外部空間が存在するのだが、それらは都市に開かれたものではない。家と家の間にあるこの隙間のような空間は公的領域でも私的領域でもない所有のあいまいな空間として存在する。このような空間の存在が、西欧の概念であるパブリックとプライベートという二項関係とは位相の異なる、コモンズの空間を産み出していたのではないか。日常生活を支える都市空間は私たちの生活世界を規定しているのだ。

現代都市という都市類型

中世都市は宗教権力や政治権力が都市空間を支配するものであり、その権力を表象するモニュメントが都市内に布置される。住宅はいつの時代も依然として匿名なのだが、産業革命以降の社会構成の変化が新しい都市を造る。パリはジョルジュ・オスマンというひとりの行政官の権力によって1851年から20年ほどの期間で一気に造られた。それは密実な都市組織を切り分けるようにカットしてブールバールという放射状の大通りを設けるというもので、それは当時都市内で多発していた都市労働者の内乱を治安するための部隊を迅速に移動させる都市構造であった。この都市改造によって都市中心部に居住していた都市労働者はパリの周縁部に追い出されるのだが、パリの都市改造がほぼあがった1871年、労働者によるパリ中心部の占拠が行われる。
このパリ・コミューンと呼ばれる都市空間の占拠が行われた年、1871年にシカゴで大火災があり都市中心部の大部分が焼失する。大陸横断鉄道と五大湖の水運の結節都市であったシカゴには巨大資本が集積しており、この大災害を契機として経済活動をサポートする都市空間に改編されることになる。そこでは、鉄骨造とエレベーターという新しい技術によって、オフィスビルというビルディングタイプが発明され、都市の中心部にこのオフィスビルが集積するCBD(業務中心地区)が形成される。ループという環状の鉄道が設けられ、郊外に拡張する住宅地をネットワークする。そして、そこでは郊外の専用住宅地と都心のオフィスビルの往復運動を毎日行うという日常生活が誕生する。現代都市という類型によって、この現代社会における人々の日常生活が定位されているのだ。シカゴから始まるこの資本主義世界システムをサポートする都市モデルが20世紀の現代都市類型である。レム・コールハースによってジェネリックと命名されたこの現代都市類型は、20世紀後半に瞬く間に普及し、現在は気候や文化とは無関係に世界のどの都市も同様の風景となっている。

重層する空間のなかにある都市

現代の都市は経済活動に対応する都市と生活に対応する都市の二重構造をもつという観測がある。前述したようにシカゴ大火でという災害を契機に都市構造が改変され現代都市という都市類型を産み出した。20世紀初頭に都市社会学という領域がシカゴ学派に始まるのは、このシカゴの都市現実をフィールドとしているからである。それは都市は五つの「同心円構造」によって発展するというもので、第一地帯はCBD、第二地帯は遷移地帯と名付けられるリエゾン、第三地帯は工場労働者の住宅地、第四地帯は中産階級の住宅地、第五地帯は郊外住宅地とされる。
大資本による企業活動に対応する賃労働者を中心とした社会システム、それに対応する都市構造である。面白いのは必ず第二地帯の住宅地は老朽不良化し外国人移民の最初の居留地となり、各種の犯罪や悪徳の温床となる地区であるとしている。シカゴ郊外にあるF.L.ライトの素晴らしい住宅が建てられているのは第四地帯である。初期シカゴ学派は1930年代までの膨張するシカゴを観察するのであるが、そこでは人々は何ら社会的係累は持たないが、マーケットセグメントされていずれかの地帯に収容され社会階層を造ることになる。
20世紀末には自動車による人の移動の自由を背景とする「外心都市」という脱構造化された都市のイメージが、ロサンゼルス学派という地理学のグループから提出される。それは産業資本主義都市の脱産業化が進行し、さらに再産業化が始まる現代社会を対象としている。ここでは都市の構造は解読不能に見えるのであるが、日常生活―都市現実―社会空間と重層する空間の中に同時に存在するという認識が産み出されている。都市は宗教、政治、資本など様々な権力によって目に見えるものとして形作られているのであるが、現代都市は資本権力が支配する都市であり、だからこそこの経済活動に対応する都市構造の中では人々は切り分けられ孤立している。
その権力とは異なる視点―「下からの眺め」から見れば、権力による現実の秩序の下で、都市はその時代の人間の疎外を至る所にあらわしているともいえる。都市は依然として人々の生活の場である。生き生きとした生活の場から見れば、都市はジェネリックな権力構造だけではない多層の構造のなかにあることが理解できるのだ。

都市の主役は住宅である

今年2月にCreative Neighborhoodsという国際シンポジウムが横浜で開催された。住環境によって豊かな社会を創造することは可能か。というテーマを廻って日本、フランス、チリ、オランダの建築家、行政関係者、研究者、若手実践家の対話によって、各国の住宅政策やソーシャルハウジングの社会背景・課題を整理しながら様々な萬代解決に取り組む実践的な事例を通して創造的な地域社会の可能性を描き出す(ハンドブックより)、という試みであった。私が『TOKYO METABOLIZING』(2010年ヴェネチアビエンナーレ日本館展示)で提示した、都市内の匿名的住宅地の生成変化こそ21世紀のもうひとつの建築の主題であるということは、この場では共有された認識であった。パリの都市シンクタンクのディレクターからは建築都市そして地域のリサイクルが報告され、ソーシャル・ミックスやプログラム・ミックスをはかるパリの都市戦略が具体的に示された。
このシンポジウムに参加している間、昔読んだN.J.ハブラーケンの「あなたには〈普通〉はデザインできない」という小論を思い出していた。参加していたオランダの都市計画家が示す70年代から80年代にかけてのオランダの住宅政策には、ヒューマニズムとデモクラシーが基底にあることが了解できる。20世紀初頭ヨーロッパに始まるモダニズムを支えていた思想はこの二項である。しかし、1989年のベルリンの壁崩壊以降、世界では資本の暴走が始まり、都市は経済活動の中心的役割を担い激しい都市間競争が行われるようになった。グローバルな金融資本主義による市場原理を優先する都市開発がおこなわれ、住宅も投機的商品として扱われる。経済活動に対応する都市構造のなかで建築はそのシンボルを創る役割を与えられていた。
2008年の資本主義の大きなクラッシュ、日本では2011年の東日本大震災を契機に既存の社会システムや都市を更新する方法が見直されている。国際的な経済システムの変更などで都市の産業構造は大きく変更され、人々の日常生活を支える社会システムも変更されている。人々の生活の場に対応する建築はどのようなものとなるのであろうか。権力に対応するものではない社会が要求する空間システムに対して建築はどのような姿を与えるのであろうか。建築は単純な形態の問題ではなく、目には見えない新しい社会システムを目に見える現れとして提示する役割を担えるのであろうか。シンポジウムでは上記の内容が共感をもって語られた。

新しい住宅概念の登場

この10年ほど、既成の住宅という類型からはみでてしまう建築が登場している。それは、21世紀の大きな社会の切断によって私たちの住まうという行為が商品化された戸建て住宅では対応できなくなったことを示している。新しく登場する建築は「解体され」、「開かれ」、「混在する」という動作を経て生まれている。それは私たちの未来の都市を指し示す都市組成の単位なのかもしれない。
2010年のヴェネチアビエンナーレの日本館展示では、パリとニューヨークと東京の都市を比較し、その形成過程の差異を示しながら現代都市の問題群を指摘していた。世界は等質性に向かいながら同時にリージョナルな問題に向かっている。そのなかで都市の可能性は匿名的に見える住宅のリサイクルの中にあると主張していた。
そこでは、経済活動に対応するジェネリックな都市ではなく、生活のリアルな現場である東京の木造密集市街地に出現している新しい小住宅に注目した。アトリエ・ワンの「ハウス/アトリエ・ワン」と西沢立衛の「森山邸」である。それは21世紀初頭の社会の切断を認識し、その結果としてジャンプするべき方向を示している。このふたつの住宅類型は家族という住宅の中身(コンテンツ)の変化に建築が対応し、さらにその外部への現れとして、公的領域と私的領域という紋切り型の制度を弁証法的に乗り越えて見せている。それは私たちが置き忘れた共有地というコモンズの発見であるのかもしれないと考えた。
現代社会に積層する問題群に対応して、新しい世界を表示する解答は、ひとつではなく多様な解答として表出する。この状況が建築を地域性に引き戻しており、そこにモダニズムという普遍言語の限界が見えてくるのだ。それは文化的差異による地域性だけではなく、さらに微細な地域の固有性に対応する建築が求められているようでもある。経済行為の中で商品化された建築が人々を切り分け孤立化させてきたのに対し、その反撃として人間の関係を前提とした世界をつくろうという試みであるように思える。そのような構造が存在することを前提として以下の7つの新しい現象を想定してみる。

新しい住宅のインデックス

1950年代の西海岸のケーススタディハウスも同様であるが、シカゴ学派が示した都市の同心円構造の第四地帯に分類される中産階級の住宅(F.L.ライトの住宅)は、20世紀末E.W.ソジャによって紹介される都市の解体とともに、周縁化されている。住宅の主題は移行しているのだ。モダニズムの潮流の中で20世紀の建築ジャーナリズムが主題とした中産階級の住宅、そこには建築の問題などもう存在しないのかもしれない。住宅の問題は都市のありようと同調しているのだ。

事象1.ハウス/アトリエ・ワン(地表階を地域に開く。拡大家族)

「ハウス/アトリエ・ワン」では専用住宅ではなくアトリエという社会化された施設を併用している。この社会化された空間は外部に晒られ、街や近隣に参加している。同時に建物の中ではアトリエで働くスタッフは仕事を介した共同体として、住宅の主宰者である夫婦とともに拡大した家族を形成している。この建物は、私的領域と公的領域双方で、新しい人間の関係性を組織化している。

事象2.森山邸(道空間や隙間をコモンズとして再生する。視線の許容、拡張家族)

「森山邸」は離散配置した10個の小さな箱を6世帯で使用する。世帯といっても一人か二人なのだが、対応する箱は何か不完全な状態に置かれている。箱と箱の間は隙間のような空気のクッションがあり、それぞれの箱には互いの関係性を調停するように開口部が切り取られている。この不完全性と自律性が、公的領域と私的領域の関係性を乗り越えたコモンズを産み出している。

事象3.egota house(都市グレインの操作で新しくボイドを産み出す)

5世帯の住戸が重層長屋として、10m×10m×10mほどの立方体のなかに組み込まれている。敷地を分割して5棟建てるのではなく共同建て替えによって周囲に不思議な共有地を生み出している。そして規模設定が適切であるので住まい手に接地性を担保することができている。ソリッドの粒(グレイン)の操作と長屋という制度を使うことで生まれる共有地がコモンズの可能性を指し示している。

事象4.シェアハウス矢来町(解体された家族を再統合する。街への新しいプログラム)

「シェア」いう概念で人間の関係性を組織化しようという建築である。現在の社会ではこのような建築類型は制度上存在しない。そのため寄宿舎というカテゴリーで法的に拘束されるのだが、人間の関係性が寄宿舎よりは親密であり、それに対応する空間が用意されている。私的領域と公的(共有)領域が同じくらいのボリュームを与えられている。

事象5. 既存建物のリサイクル(タイポロジーを守りながらコンバージョン、リノベーション)

連続壁体で造られるヨーロッパの都市ではあたりまえの概念であるが、独立するグレインの集合という日本の都市構造では、建て替えが容易であるうえに、地震やそれに伴う火災などの災害要件もあって、建物を永続させるのに様々な困難がある。しかし、経済的な制約や時間概念などコンテクストを尊重しようとする思想から、今後展開する可能性の大きい領域である。

事象6.地域社会圏/路地核(まだ世の中には実現していない理念モデル)

フーリエの空想社会主義的な共同体なのかもしれないが、世界が探している新しい都市組成の単位なのかもしれない。コルビュジエが夢中になった新しい都市を構成する単位(ユニテ)である。東日本大震災で津波によって流されたタブララサに出現される可能性があったと思われるが、現行の制度の中で実現はされていない。

事象7.空き家、空き地などのボイドプログラム(ジェントリフィケーションに対抗する空間プログラム、建築という概念を超えるもの、道路や敷地操作などインフラに介入するものなど)

コミュニティデザインなどカタチにならないもの。社会の価値観に揺さぶりをかけるもの。実体としてのソリッドではなくボイドのデザイン。小さな隙間を供出して歩行者ネットワークをつくったり、細街路を歩行者専用として線形の近隣公園とする。カーシェアリングやコミュニティバイク等々、大学や研究機関で検討されているものは多数ある。