建築とは書物のようである。読み進む中で物語の構成が次第に読み手の脳の中に投影され、書き手の脳の中と接続される。言語という媒体を介しているために、その内容伝達には相応の手続きが要求される。読み進む時間が必要だし、読み手の言語能力によって伝達される情報量が異なる。建築は空間という媒体を介しているために、これも内容伝達には相応の手続きが要求され、読み手の能力によって伝達される情報量は異なる。建築空間を経験する者は身体という不自由な受容器を使って建築を読み解く。眼、手足、皮膚、など身体に備わる感覚器官を使いながらその感覚が届く泡のような空間を移動させながら建築という書物は読み解かれる。
アーメダバード(インド)にあるコルビュジエの「繊維業者協会会館」は豊かな文章のような建築だ。異常に長いスロープで建物内部に招き入れられる。のだが、そこは外部である。この建物はアーメダバードという場所が熱帯モンスーンの気候帯であるため、内部気候を守るために大量の外気を流し入れる大きな外部空間が内部に抱き込まれている。東西立面は建物の面するサーバルマティ川の川風を通しながら、高度の低い日差しを内部に入れないように巨大なブリーズソレイユが設けられている。ブリーズソレイユにはプランターが組み込まれている。ブリーズソレイユのコンクリートに突き刺してある鋼管は、手摺りのように見えるのであるが、このプランターのための散水管だ。夏季には連日40℃を超えるというこの地域では、水分を帯びた草木によって導入される空気が冷やされるのかも知れない。ブリーズソレイユの打放しコンクリートの桟木型枠は丁寧に制御されていてコンクリート面にパターンを転写している。朝夕は高度の低い日差しがコンクリート面をなめてパターンを浮きあげて輝く。この型枠のパターンは部位ごとに使い分けられてコンクリートの意味を変えている。雨期には毎年川が氾濫し水浸しなるこの場所では、スロープで導入された2階は大地からつながる第2の地面なのだろう、2階にあるホールのような空間が空気的には外部であることは自然に受け入れられる。さらに階段を上がると自立する門型のコンクリートのフレームがあり、そこに巨大な赤いパネルの回転扉が設けられている。このゲートによって侵入をコントロールされる3階は、さらに天井高が高くサーバルマティ川を眼下に望む広場のような内部空間だ。門型の入り口から連続する長くて大きいパブリックベンチ、会議場の大きくうねる壁、屋上にさらに誘うメザニン。そのメザニンに上がるオブジェのような小さな階段。そのような道具立てがこの場所をプライベートガーデンのように仕立てる。会議場の内部の木製の曲面壁はシームレスにつながるように千鳥でパネル割されている。会議場の天井は東西の日差しをバウンドさせて室内に招き入れるようにお盆の下面のように湾曲しているのであるが、この両端の熱溜まりには熱気抜きの開口部が几帳面に設けられている。その屋根面にはまさにお盆のように水が張られ気化熱で躯体を冷却するのだそうである。メザニンから誘導される屋上には夜会のためのバーがまるで街中にある露店のように設えてある。と、ここまでの記述はずいぶん昔にこの建物を訪ねたときの記憶を紡ぎながら書いている。事実とは異なる部分もあるかもしれないが昔読んだ書物のように思い出される。それはこの建築が言語で構成されるように意味の塊が切り取られていたからだ。それまでコルビュジエの建築はずいぶん見てきたが、ここでは経験する空間には驚きずいぶん興奮した。この空間の中を移動することで展開する光景やそれを感じている身体がとても心地よい。内部空間を何時間も彷徨し、佇み、身体全部で空間を味わっていた。ここではコルビュジエのいう「建築的プロムナード」が概念ではなく実在することがわかる。
1954年に竣工しているこの「繊維業者協会会館」は空調設備がないため、建物内部に野放図な外部空間を抱き込み環境調整を行っている。この空気的に外部空間である内部は図面の中にプロムナードと記入される。ほとんどが外部であるこの建築は公園のような自由空間を移動しながら異なる意味の塊としての建築部位を経験する。湾曲する壁や、光や風を制御する部品、躯体冷却する屋根スラブ、メザニンや階段、軸吊りの回転パネル、門型のフレーム、巨大なランプ等々、すべてが自律し言語化されている。しかもその建築部位は人々のアクティビティを誘導したり、温度や気流や光をコントロールするための有意味な道具立てである。その道具に丁寧に形を与えアーティキュレーションされた意味の塊としてあるのだ。それが空間を経験する者に語りかけ、建築を読み取り可能な書物にしている。
建築のディテールとはこのアーティキュレーションされた事物を繋ぐ部分にある。「繊維業者協会会館」には様々なディテールが登場するが、それは意味を切り分けるために存在している。それは建築総体と切り離して存在するものではない。「繊維業者協会会館」という建築は建物全体が環境装置なのだ、というよりは人間が構築する新しい自然のような建築である。という、この建築全体の思想の中でディテールは存在している。スラブとスリットで切り離されていることでブリーズソレイユという環境装置が脳の中で理解され、暴力的なスケールの建築部位が細やかなコンクリートの型枠の操作で副次的部品として表現される。湾曲する木パネルの納まりや、曲面の塗り壁、手すりなどのスチールワークもすべて、意味のある形として了解され建築全体を統合する思想の中にあることが了解できるのだ。
建築が単一の素材で作られていた時代では空間を言語化するものは、空間そのものを構成するオーダーや建築部位に設ける彫刻的な付着物や表面の装飾だった。しかし近代に入って、建築の建材や部品が工場で生産され、規格化された製品が現場に運ばれ、それを組み立てる作業によって建築物がつくられるようになると、そこで大量に作られる建築は異なる部品を組み合わせるシステムの問題となる。この産業社会を背景とする近代の建築で発見された新しい作業が接合部のディテールである。近代以前の様式建築がもっていた直接的な言語表現に変えて、この接合部の制御や表面材のパターンなどのディテールのネットワークを伝達メディアとするアイデアは20世紀初頭のヨーロッパで開発されている。産業社会に対応する建築の作法が近代建築を出現させたのだ。そのなかで、近代以前の建築が要請されていた語りかけるメディアとしての建築が、近代建築という作法のなかでも構想される。アーティキュレーションという原理を用いながら、言語性を獲得した語りかける建築(ナラティブアーキテクチャー)は近代建築の表現形式の到達点である。身体の泡をもつ空間の観察者は移動の中で建築全体の空間構成を脳の中で再現し、同時に感覚器官の泡の中にあるディテールを読み込みながら言葉を紡ぐ。このようにして書物のように書き手の脳が読み手の脳に接続される。20世紀末には、レム・コールハースによってコルビュジエとは全く異なる方法で言語性が作り出される。アーティキュレーション(分節)という意味を切る分ける操作によって言語化されるのとは異なり、不連続な現代都市を参照するように偶発的衝突によって意味を区分けするのだ。この衝突の切断面は空間の構成を明示するディテールが支えている。コルビュジエは空間を経験する時系列に沿って叙情的に語られるのに対し、脈絡のない言語の衝突によって発見的な現代の状況が建築に表現される。そして、21世紀初頭、西沢立衛の豊島美術館では、アーティキュレーションという概念はどこにもない強烈な言語性を持つ空間が出現している。土盛り型枠による滑らかな自然曲面を、コンクリートの連続打設によってシームレスな連続曲面として実現させる。コンクリートという単一素材で空間は構成され、接合部はどこにも存在しない。ディテールは溶解して眼には見えないのであるが、水を流す面の撥水剤や光触媒によって外皮は守られていることがわかる。背後にある膨大な革新的技術を隠蔽しながら、この「新しい建築」は出現している。
現代の私たちの社会はアーティキュレーション(分節)の時代から滑らかに繋いでいく思想の中に入りつつあるのかもしれない。そこではディテールの概念も変わるのだ。