視線の空間人類学

北山 恒 

視線の交差

建築が人間の関係性をデザインするものであるとするならば、それは視線をデザインすることである。人と人との関係性を構造化するうえで視線の役割は大きい。人は目と目が合うとき、敵意がないことを示すために挨拶をする。一度挨拶をした人は互いに認識され、その関係は持続される。互いに認識しあった人たちのネットワークがネイバーフッズという親密な集合を形づくる。視線の交差が互いの気配を感じ、他者への気配りを要請するのだ。

顔見知りの集合

この互いに挨拶する親密な人間集団の様態はどのようなものなのか。複雑な情報の塊である人を個別に個体識別できるサイズは150人程であるという人類学者の研究がある。顔見知り同士、相手のさまざまな情報を記憶できる範囲の数しか仲間になれない。原始共同体の規模はほぼこのサイズなのだそうである。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』のなかにアマゾン上流のボロロ族の記述があるが、そのサイズは150人ほどと記される。そこでは集落の全ての成員が記名されそれぞれ役割が与えられることが観察されている。顔見知りの関係だけで閉じた集団は、その成員の全員に複雑な階位と役が与えられており、日常生活にはシナリオのように行動規範が決められている。この社会集団の成員の関係は不平等であるが安定し、停滞した社会をつくっている。それに対して、この150人という集団サイズの限界を超えるとき、人びとは見知らぬ人間との関係を取る必要が生まれ、「都市」という社会に移行する。見知らぬ人の集合では、固体の固有性は認識されない。そのため、人びとの関係は平等で均質である。都市のなかで平等という概念が生まれるのは、見知らぬ人の集合のなかで、人は固有性を剥奪された生体的存在でしかないからである。

コモンズ

顔見知りの集団である共同体では、土地や自然などの環境資源は共有されるのだが、それはコモンズという概念で知られている。コモンズという「社会的共通資本」はそれを利用する人びとが互いに気遣い配慮することで維持されている。この顔見知りの集合の規模は自ずと限界があり、コモンズはこの顔見知りの関係のなかに存在するものなのである。そして、それは逆にコモンズという実態によって人々は共同体を実在として経験していたともいえる。宇沢弘文の『社会的共通資本』のなかに「近代国家の形成にともなって、長い歴史的な過程を経て発展してきた入会制をはじめとする、自然環境の管理・維持にかんする優れた制度(コモンズ)は、法制度、社会的、あるいは経済的な観点から、前近代的、非効率なものとして排除されていった。」と書かれる。社会共通資本(コモンズ)はこの顔見知りの共同体(ネイバーフッズ)を支える基盤構造(インフラ)であった。人々の交通が活発になりネイバーフッズという閉じた社会が解体され、見知らぬ人が登場する社会に移行するなかでコモンズの存在が困難になるのだ。

 見知らぬ人間との関係は、たとえば交易をおこなう市場という空間によって始まる。そこは異なる集団が出会い、交流し交換価値を互いに認める場である。そこでは交換するものの所有が明確にされる必要があるため、市場という交換の空間では共有資産(コモンズ)という概念は適応しない。そして、交換のためには互いが承認できる共通のルールが必要であり、ルールが作動する社会制度が要求される。そして集団サイズの拡張により見知らぬ者が登場することで、異なる集団との軋轢や衝突、犯罪が発生する。市場という見知らぬ者が交流する空間は監視が必要なのだ。見知らぬものが自由に行きかう都市空間のなかは、この市場の空間が延伸するようにパブリックという空間が設定され、このパブリックという都市空間を監視する社会制度が用意される。

視線の管理

監視は都市という空間を作動させるために必要な要件なのだが、この監視された都市空間の群衆のなかで個人は孤立する。ハンナ・アーレントは他者からの視線を奪われている、他者から無視されている孤立の状態をプライベートであると表現している。

 

都市国家の法とは、まったく文字通り壁(・)のことであって、それなしには、単に家屋の集塊にすぎない町はありえたとしても、政治的共同体である都市はありえなかった。

『人間の条件』ハンナ・アーレント

 

都市社会のなかでパブリック空間とプライベート空間をどのように調停するのか、それが建築の主題なのだ。固い壁を立てて視線の通らない恒常的な分断をするのか、視線の位置を示す開口部をつくるのかによって、空間の関係性は異なる。さらにその開口部の大きさや位置によって、それが見るためなのかあるいは見せるための開口部なのか、意味は異なってくる。見る者の姿を消すことはそこに権力が生まれ、見られる者が定常化することで抑圧の構造が生まれる。ミッシェル・フーコーは「パノプティコン」という空間形式を紹介している。日本語では一望監視システムと訳される。放射状に配置される監獄を一点から監視できるシステムなのだが、収容されている者同士は互いに見えない。監視者からの視線を受けることが管理の原理である。さらに監視者が不在でも、視線を受ける空間構造そのものが管理というシステムを内在する。人間が見られ、見るという関係をつくる視線の存在を印象づける引用である。

窓の様態

伝統的な日本の生活空間では、相互の空間の関係性をつくる〈間〉は壁ではなく、厚みをもった〈縁側〉や〈玄関〉〈次の間〉といった空間によって調停されている。そこに〈障子〉や〈連子〉〈襖〉など可動する壁のような引き戸が設けられることで関係性を調整していた。それは視線を制御できる厚みのある空気のクッションのような空間装置である。この〈縁側〉のような「間:in-between」を設けることによって、見ることと見られることを複雑にコントロールする可能性が生まれている。現代の都市空間では恒常的に視線の通る透明なガラスの壁にする場合は、ブラインドなどの二次的な視線制御の装置の使い方によって、その関係性はコントロールされるのだが、それはプライバシーを守る、または環境を制御するという外形的機能に対応する壁または窓である。

 それだけではなく、新しい「間:in-betweenの空間装置」を開発することで、監視の構造を反転し、見知らぬ人々が集合するなかで失われたネイバーフッズを再生できないであろうか。区分所有が進行した資本主義社会のなかでコモンズという実態の存在は困難であるが、共有するという感覚は創造できないであろうか。視線を誘導することによって人間関係を調停し、そこに「コモニング」という人々と共有する感覚をつくりだし、共同体への参加の動機づけを促すことはできないであろうか。